エストニア語
エストニア・テレ!
エストニアはバルト海に面した国、関取 把瑠都(カイドー・ホーヴェルソン、エストニア・ラクヴェレ出身、尾上部屋)の故郷です。バルト海の東の一番奥まったところがサンクト・ペテルブルグ。そこから汽車で西北に(新幹線があるなら)2時間足らずでヘルシンキ、東南に2時間足らずでエストニアの首都タリンの駅に着きます。ヘルシンキとターリンはバルト海の海峡に作って向かい合っています。しかしヘルシンキで話されるフィンランド語とターリンで用いられるエストニア語は親戚ですが、ちょっとだけ違います。ヘルシンキからペテルブルグ経由でやってきたペトリ君が、ターリンの駅で待つまっているマユミに呼びます:
ペトリ:「ヘィ、マユミ パイヴェー」(マユミ今日は)
マユミ:「ヤァ、ペトリ テレ」(やぁ、ペトリ今日は)
と違ってことばが還ってきます。またエストニア語では「パエヴァスト」をつけると、丁寧になりますが、フィンランド語では違うといいます。
エストニア語とフィンランド語は、同じウラル語系フィン・ウゴル諸語の姉妹語だといっても、このように挨拶まで違います。それでもエストニアの人達はスマートなヘルシンキ放送をよく聞いているのでフィンランド語が結構わかります。しかし逆はそうではない。フィンランド人がエストニア語を聞いてすぐに分かるというわけではないようです。ここには両国がロシアとソ連とに関わってきた歴史の違いが反映しています。
苦難の歴史
エストニアは1940年にソ連に「併合」、つまり侵略されました。その後一時はエストニア人の人口が65%まで落ち込んだことがあります。しかしその状況も1991年8月20日深夜の独立宣言以来変わってきています。それでも「移民」ロシア人たちはかつての植民地の居住権は既得権であると思っているらしく、もちろんエストニア語を話そうともしません。そのような状況に対する反発から、独立回復後の新しいエストニア共和国はきつい言語法を制定しました。エストニア語はエストニア民族と文化の不可欠な要素であり、エストニアに居住する異民族間でも意思伝達言語であると規定しようとしました。一方でエストニアは国内の少数民族の生活を保障しているわけですから、この人達の人権の一部である民族言語の使用を制限することになります。そのためにヨーロッパ共同体に加盟しようとするときに、その民族主義的な言語政策が問題になりました。EU側は言語法の規定の緩和を求めたのです。討議の結果はエスト語の使用能力を三段階に分けて、外国人居住者の立場や職業によって運用能力の規準を定めたのでした。このような経過を経て2000年に施行された言語法は国内異民族の人権を言語的にも認める規定となりました。エストニアは、EUという多言語的な地域共同体の内部にあって、自国語は少数言語です。しかしそれをかけがえのない民族的な価値として尊重しようとする。そこでロシア人だけでなく、一般に異民族の居住権を保証しなくてはならない。エストニアにはこういう問題があるのです。地域共同体をもてない我々から見るとうらやましいような話しです。
エストニア語の研究
エストニア語は古くからよく研究されてきた言語です。閉鎖音に三段階の長さの違いがあるなどの珍しい構造をもっているので、注目されてきたことでもあります。日本にも優れた研究があります。また入門からエストニア語を学びたい人のためには、インターネットで立派な教材に出会うこともできます。例えば、松村一登さんのホームページはすぐれた教材ですwww.kmatum.info/eesti/index.html。それに釧路市に本部のあるエストニア協会やエストニア共和国大使館のホームページも役立ちます。
《金子亨:言語学(2006年掲載)》