コエグ語1
昔・ちょっとアドベンチャー、今・観光地
-スルマ系言語、コエグ語を探して-
1987年12月にエチオピアの首都、アジスアババを人類学者である友人とともに出発して、南へ南へと車を走らせました。美しい湖のあるアルバミンチの町で一泊しました。役所に私たちが調査をすることを届ける必要がありました。アルバミンチの役所で紹介状をもらって、さらに南へと車を走らせ、ジンカの町に到着しました。当時ジンカに外国人が泊まれるホテルは、2,3軒しかありませんでした。その中で人類学者間では有名なホテルの玄関に車を入れました。なぜ有名だったかというと、トイレが清潔であるという理由からでした。2年後に妻を連れてきたときも、女主人の好意で主人一家が専用で使用するトイレを使うことができました。当時のエチオピアのトイレの汚さには閉口していましたから、これは最高の贈り物でした。
妻は、その後、毎朝に行われる女だけのお茶会にいつも呼ばれて、女主人の隣に座っていて、私は彼女を羨ましく思ったものでした。ホテルは女の城といってもいいもので、女性たちによって経営されていました。人類学者ではない私でさえ、人類学的な調査対象としたいと思うほど、興味深いものでした。
さて、ジンカで役所まわりと車の燃料(役所の書類がなければ車の燃料は買えませんでした)や食料を調達して、さらに南へと出発しました。目的地は、ケニア国境、トゥルカナ湖へ流れ込むオモ川の川辺にあるカラの人々が住む村でした。その村で友人は人類学的調査をしていたのでした。ジンカを出ると、道は、急な下りになります。アビシニア高原から低地へと下っているのです。高原は、涼しい風が吹いているのですが、赤道直下の低地は灼熱の土地です。日中、摂氏40度になるのは、当たり前、摂氏40度くらいだと「今日は涼しいね」という位のものです。1日でカラの人々の村に到着し、テントを張りました。友人のテントは、居住用の大きなテントでしたが、私のテントは、山頂アタック用の1人が寝るのが精一杯の小さなテントでした。これからのサバンナの旅が待っていたからです。
こんな地の果てまで来た目的は、まだ調査されていないスルマ系言語を探していたのです。当時の文献では死語になっていると書かれていました。死語、つまり、もはや話す人々がいない言語であると書かれていました。でも、その言語でなくても、まだ知られていない言語があるかもしれない、いや、あるはずだと考えたのでした。
友人の調査地であるカラの人々の村で、変な、変わった言語を話す人々がこの近くに住んでいるか、テントの前を歩いていた村人にたずねました。答えは、No。そっけないものでした。それでも友人の話によると、その村の北に分からないことばを話す人々が住んでいるとのことです。それが目的のことばであろうとも、なかろうとも、こうなったら、行くまでの事と決心をして、荷造りにかかりました。カラの人々の村から、その村までは、車がとおる道がありませんでした。人々に私の荷物を担いでもらうしかありません。そこで、人ひとりが担げる量の荷物に解体して、海外からの食料援助の布袋につめ直しました。
あくる朝、太陽があがる前に私は、貴重品だけをもって助手とともに北の村へと出発しました。袋詰めした荷物は、地面に打ち捨てておきました。すると人々が1人、また、1人と、荷物の袋を担いで、私たちのあとに続くのです。朝の涼しい間に距離をかせいで、摂氏40度をはるかにこえる日中は、かろうじて見つけた木陰で休憩して、目的の村に到着したときは、太陽が沈みかけていました。村人が用意してくれた場所は、村はずれの小さな森の入り口でした。テントだけをなんとか組み立てて、そのまま何も食べずに寝てしまいました。極度の疲労のせいか、緊張のせいか、その夜に見た夢は、それまでに見たことのないような悪夢でした。森の中を精霊が、叫び声をあげて走り回るのです。
翌朝、テントの周りに人々が集まっていました。これがコエグ語を話す人々とのはじめての出会いでした。その中に、カラの村で私に変わったことばは存在しないと答えた人も含まれていました。
コエグ語は、当時すでに死語であると研究者に考えられていました。しかし、実際には約300人の人々がこの村でコエグ語を話していたのです。コエグ語は、ナイル・サハラ言語ファイラムに所属するスルマ系の言語の1つです。スルマ系言語グループは、エチオピア西南部とスーダン南部で話されている、いくつかの言語からなる小さな言語グループです。そのたいていの言語は、少ない数の話し手によって話されていて、いつ死語になってもおかしくないような言語です。後で発見したオモ・ムルレ語は、もはや4人の老人だけが話すことができるだけです。
言語が死語になる原因は、話し手が戦争で殺されてしまうとか、外部からもたらされた疫病で滅んでしまうとかといった、悲劇的なこともあるけれど、たいていは、他の言語を話すようになり、自分たちの言語を話さなくなることである。他の言語を話すようになり、自分の言語を話さなくなることを、言語交替と言語学者は呼んでいます。オモ・ムルレ語の話し手だった人々は、近隣のニャンガトム語を話すことで、彼らの言語を話さなくなってしまったのでした。話し手たちは、オモ・ムルレ語からニャンガトム語へ言語交替を行ったのです。コエグ語の話し手たちは、その一部はすでにカラ語を話すようになっている。300人だけがいまだにコエグ語を話すのである。コエグ語の話し手たちは、カラ語を流暢に話すことができるから、コエグ語からカラ語への言語交替がいつ起こっても不思議ではない。しかし、よく観察してみると、コエグの人々が話すカラ語は、カラ語の話し手が話すカラ語とは少々違っている。また、カラの人々は、コエグの人々を差別している。このことがコエグ語からカラ語への言語交替を遅らせている原因と考えられる。ちなみにユネスコが発行している言語レッドデータブック(死語になった言語、死語になる恐れのある言語についての情報が載っている)にコエグ語とオモ・ムルレ語が記載されているはずである。
当時は、私が、彼らが見た初めての外国人だったのだが、現在は、この地域は、観光の「地球最後の秘境」ツアーのコースになっている。ジンカへは飛行機が飛んでいるし、車が走れる道も整備されている。英語の話せるコエグ人の登場は、時間の問題かもしれない。
《稗田乃:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(2007年掲載)》