コエグ語2
ことばの中の文化
-コエグの人々は農耕民それとも狩猟・採集民?-
普段何気なく使っていることばの中に、文化に裏付けられたたくさんのことばがある。「彼は三枚目だね」(今の若者はこんなことばは使わないか)とか、「僕は幕の内弁当にしよう」とかがそうである。「三枚目」は、芝居小屋の看板の端から三枚目から由来しているし、「幕の内弁当」は、芝居の幕と幕の合間に食べる弁当のことだ。「奈落に落ちたような気持ちだ」の「奈落」は、梵語から由来するものだけれど、言い回し自体は、芝居の「奈落」と関係がありそうだ。
アフリカ、エチオピア西南部、オモ川の川辺にすむコエグの人々は、主に彼らの暮らしは、川辺の畑からとれる穀物の一種であるモロコシ(コーリャン)に依存している。コエグの人々の畑は、川の氾濫原を利用したものと、川の堤防を利用したものの2種類からなる。そのうち重要なのは川の堤防を利用したものである。季節は雨季と乾季に分かれるが、雨季になると川の水がどんどん増水して堤防をあふれんばかりになる。勢いよく流れる水とともに、上流から栄養豊かな土が流れてきて堤防に堆積する。雨がやみ乾季になると、あふれんばかりだった水は徐々に水かさを下げ、栄養豊かな土に覆われた堤防が姿をみせる。コエグの人々は、そこに掘り棒で穴を開け、モロコシの種を埋めていく。モロコシは、堆積した土を栄養にして、乾季の終わりには人々に実りを与えるのである。
モロコシがコエグの人々の主食になっているのは間違いないけれど、畑から得られる収穫物は、コエグの人々の生活を支えるほどに十分ではない。収穫が近づくころには、ソルガムを蓄えた穀物倉は底をついてしまう。ひもじい彼らの食事を支えるのが、オモ川から採れる魚と、オモ川の周りに張り付いている小さな森で採れる獣や野生植物である。魚は、銛でつくか、釣り針でつる。野生動物は簡単な仕掛けわなで捕獲されるが、とれる量はほんのわずかである。魚はかなりの量をとることができる。この時分になると、村中は魚の煮たにおいが充満することになる。
コエグの人々にとって農業と、漁労・狩猟・採集がたいせつな労働であることは明らかであろう。では農業で用いられることばはどうなっているのだろう。コエグの人々は、近隣に住むカラの人々の言語をよく理解し、話すことができることは、前回の紹介文、「昔・ちょっとアドベンチャー、今・観光地」にも書いた。農業で用いられることばは、カラ語からの借用語にあふれている。
コエグ語 | カラ語 | |
「モロコシの品種名」 | logomo | logomo |
「畑」 | haamu | haami |
「畑の境界」 | maari | maaro |
「除草する」 | haarim- | harmo |
「根から引っこ抜く」 | buuc'- | buuc'a |
「豆をさやからとる」 | maishi- | maisho |
「鍬」 | gaita | gaita |
「斧」 | c'uk | shuko |
借用語とは考えられないことばもある。
コエグ語 | カラ語 | |
「モロコシ」 | ruubu | ishin |
「耕す」 | koh- | pak'iina |
「モロコシ」を意味する単語は、どうもカラ語とは別の言語からの古い借用語の可能性が高い。「耕す」は、「(土を)打つ」を意味する動詞と考えられる。
狩猟で用いられることばはどうなっているのだろう。狩猟で用いられることばにもカラ語からの借用語はある。
コエグ語 | カラ語 | |
「猟をする」 | adim- | adima |
借用語と考えられるのはこの単語、1語しか見つけることができない。他の狩猟で用いられることばは借用語ではない。
コエグ語 | カラ語 | |
「足跡を追う」 | iyam- | c'aga |
「忍び寄る」 | jig- | zaapa |
「待ち伏せる」 | ugushe- | bats'imo |
「追いかける」 | rish- | goba |
借用語から分かることは、農業技術がカラの人々から伝えられたことであろう。なぜなら「モロコシの品種名」や農具の名前など、また、「除草する」などといった農業技術をあらわすことばは、カラ語からの借用語である。ただし、カラの人々から農業技術が伝わる前に、なんらかな農業がコエグの人々の中に既に存在したことは、「モロコシ」という一般名称(細かな品種名でなく)がカラ語からの借用語ではないことが教えてくれる。
一方、狩猟は、コエグの人々の本来の労働であったにちがいない。「足跡を追う」とか、具体的な狩猟技術の用語は、コエグ語の本来のものであり、借用語ではない。反対に、「猟をする」という一般的な行為をあらわす語がカラ語からの借用語であることが面白い。身近な行為、いつも行っている行為、具体的な行為には、それを表現することばが存在しても、それら全体を抽象的に言い表すことばが存在しないというのは不思議ではないだろう。
人は、生命がやどり、それがかたちとなり、そして、生まれてくる。人々は、新しい仲間をかれらの社会に迎え入れるとき、その新しい仲間に名前を与える。コエグの人々に赤ちゃんが生まれたとき、名付け親が赤ちゃんに名前を与える。「名づける」というコエグ語は、日本語に逐語訳すると、「弓を与える」になる。名付け親は、まだ握られた小さな嬰児の手に小枝で作った弓(もちろんおもちゃの弓)を握らせて、嬰児の名前を宣言する。もはや弓で動物を追いかけるという光景は見られないにもかかわらず、重要なことばの中に昔をしのばせることばがある。
《稗田乃:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(2007年掲載)》