コプト・エジプト語(コプト語)
コプト・エジプト語は、コプト文字で書かれたエジプト語だとみなされます。ですから、「コプト・エジプト語が話された」というのは、ある意味おかしなことかもしれません。ですが、コプト・エジプト語と同じ文法体系をもつ言語は、少なくとも紀元後3世紀から11世紀ころまでは母語として話されていたそうです。コプト・エジプト語は、早くても11世紀以降、アラビア語の母語話者が増えるにつれて、話されなくなりますが、コプト・キリスト教会の典礼言語として、現代まで生き延びます。ちなみに、真偽はわかりませんが17世紀まで上エジプトでコプト語母語話者がいたという記録もあります。
ただ、20世紀に入ったころから、イクラディユース・ラビーブ(またはクラウディウス・ラビーブ、生没年1868-1918)が発端となってコプト語の復興運動が起こり、その結果現在数人のコプト教徒が日常語としてコプト語を使用しているそうです。
コプト・エジプト語が話された地域は、その名が示すとおり、エジプトです。現代では、コプト教徒のディアスポラ(離散)によって、典礼言語としてのコプト・エジプト語は、オーストラリアやフロリダ、カナダなど世界中に広がっています。
コプト・エジプト語は、アフロ・アジア語族のエジプト語派に属します。アフロ・アジア語族は、名前の通り、アフリカから西アジアまで分布する大語族です。この語族は、セム語派、オモ語派、クシ語派、エジプト語派、ベルベル語派、チャド語派の6つに分かれます。有名な言語としてセム語派に属する、アラビア語やヘブライ語があります。コプト・エジプト語は、これらの言語と同じ祖先にあたる言語を共有しています。
コプト・エジプト語の文法は、日本語話者にとっては学びやすいのではないでしょうか。というのも、ロシア語のように複雑な語尾変化があったり、アラビア語のように複雑な内部屈折があったりはしないからです。
たとえば、次の文章をみてください。
Ti-ouôš de n-k-eime pe-n-son
私-欲する Dマーカー 接続法-あなた(男)-知る 定冠詞(男単数)-私たちの-兄弟
če a-n-či n-hen-entolê
〜ということを 過去-私たち-得る 〜を-いくつかの-命令
[ntoot-f m]-pe-n-ĉoeis
[〜から]-定冠詞(男単数)-私たちの-主
mn-p-sôtêr nte-p-kosmos têr-f
〜とともに-定冠詞(男)-救い主 〜の-定冠詞(男単数)-世界 全体-それの
「私の兄弟よ、私たちの主と世界全体の救い主から私たちがいくつかの命令を得たということをあなたが知ることを私は欲する。」(「ペテロのピリポへの手紙」『ナグハマディ写本第8巻』より)
n「〜を」やnte「〜の」、mn「〜とともに」といった格関係を表すマーカーが日本語の「を」「の」「と」のように名詞とは別々にあって、わかりやすいです。
ただ日本語とはちがうのは、その位置です。日本語では、格マーカーはすべて名詞の後ろにきますが、コプト・エジプト語では前にきます。
他に目につく違いは、名詞の性です。
コプト・エジプト語には男性と女性の性があり、全ての名詞は、このどちらかにあてはまります。ただ、古代エジプト語は語尾変化で性を表していたのですが、コプト・エジプト語の場合語尾変化がなくなり、定冠詞で性を示すようになりました。これはドイツ語と似ています。また、語尾変化がなくなったことで、男性形と女性形が形の上では同じになり、定冠詞からしかその性がわからなくなったp-hmhal「男のしもべ」、t-hmhal「女のしもべ」のような例もあります。
上の例文では、たくさんのギリシア語からの語彙借用がみられます。de、kosmos、sôtêr、entolêなどがそうです。名詞や動詞などは言語学では、「開かれた類」といい、他の言語からの借用がされやすいといわれています。ここではkosmos「世界」、sôtêr「救い主」、entolê「命令」などがそうです。逆に、前置詞、不変化詞、接続詞などは「閉じた類」といわれ、借用がされにくいことが言われていますが、コプト・エジプト語では、ここでのde(ディスコースマーカー)のように、よく借用がなされています。他には、前置詞のkataや、接続詞のallaなどがあります。
ここでの例文のように、コプト・エジプト語では、宗教文献がたくさん残っており、現在でもコプト教会の典礼語として、生き続けています。ユダヤ教におけるヘブライ語、スラブ系の正教会における教会スラブ語のように、宗教によって言語が維持されていくという現象は、世界でも数多くみられます。コプト語はコプト教会とともにあり、コプト教会がなくならないかぎり、コプト語を読む声がこの世界からなくなることはないでしょう。コプト語復興運動が再燃し、コプト語の母語話者がたくさんでてくることを筆者は望みます。
※ コプト・キリスト教
エジプトで独自の教義を発展させた東方教会系のキリスト教の一派。古代エジプトの太陽暦に起源をもつコプト暦は現行暦(グレゴリオ暦)の9月11日に始まり、クリスマスは1月7日に当たる。信者はエジプト人口(約8千万人)の約1割を占めると言われる。(本文に戻る)
《宮川創:京都大学大学院文学研究科/コプト・エジプト語言語学、
言語類型論、コプト学(2014年掲載)》