アゼルバイジャンの文字 英 Azerbaijani writing system

南カフカスで話されるアゼルバイジャン語(アゼリ Azeri とも)は,アゼルバイジャン共和国を中心に,ジョージア南部,アルメニア共和国,さらに北方のダゲスタン共和国の一部で用いられる。一方,イラン領内では,北西部の都市タブリーズ(Tabrīz)を中心に,その周囲に広がる地域,および,そこから南東に向かって,ハマダーン(Hamadān)やテヘラン付近に至る地域で話される。
以上の地域のうち,アゼルバイジャン共和国では,アゼルバイジャン語が公用語に指定され,ロシア語とともに,行政,教育等の各方面で用いられる。また,イラン領においても,公用語ではないものの,北西部ではペルシア語に次ぐ地位を持ち,使用度は高い。 [1]
北アゼルバイジャンでは,ロシア帝国の支配下にあった 19 世紀後半から,それまでのアラビア文字による表記に替えて,ラテン文字を用いる試みが始められたが,実際にラテン文字が用いられるようになるのは,北アゼルバイジャンがソビエト連邦に組み込まれた後の 1929 年のことである。アラビア文字からラテン文字への変更が急速に行われた背景には,それまでの文献へのアクセスを困難にすることにより,伝統文化,特にイスラムと絆を断ち切る意味があったと思われる。このラテン文字表記は,1933 年にいくつかの文字が変更,あるいは入れ換えられたものの,1940 年まで用いられる。
しかし,ようやく定着しようとしていたラテン文字表記は,1940 年にキリル文字表記に替えられてしまう。この動きは,ソ連内の他の言語においても共通しており,ソ連全体のロシア化・ロシア語化と無関係ではありえない。このキリル文字正書法には,アゼルバイジャン語の表記としてはいくつかの不都合が含まれていたが,それが改善されるのは,1958 年以降のことである。
1991 年 8 月 30 日,新生アゼルバイジャン共和国が,独立宣言する。同年 12 月 21 日、独立国家共同体(CIS)に参加するが,翌年 5 月には CIS からの脱退,独自通貨マナトの導入などの政策を発表する。このような政策の中に,文字改革も位置づけられる。かつてのラテン文字に戻るのではなく,新たなラテン文字アルファベットを採用することになった。
独立当初激しかったキリル文字に対する反感は,アゼルバイジャンの人々の,長年にわたる反ロシア・反ソ連感情から生じたものであった。しかし,ラテン文字への移行が決定されたが,当初の情熱は,現実的な諸問題を前にして,トーンダウンしつつあり,今後しばらくはキリル文字との共存が続きそうである。 [2]
イラン北西部(南アゼルバイジャン)では,アゼルバイジャン語はアラビア文字表記が続けられているが,正書法は確立していない。南アゼルバイジャンはイラン・イスラム文化の強い影響下にあって,アゼルバイジャン共和国のようにラテン文字表記への移行を求める動きは全くない。両地域のアゼルバイジャン語は,外来語の語彙などの面で相違―アゼルバイジャン共和国ではロシア語,南アゼルバイジャンでは英語やフランス語からの借用が多い―があるが,基本的に同じなので南北のアゼルバイジャン人たちは互いに理解することができる。文法面では,アゼルバイジャン共和国では母音調和が守られているが,南アゼルバイジャンではペルシア語の影響を受けているので,母音調和が守られない傾向にある。 [3]
表記体系の変遷 |
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アゼルバイジャン語テキスト
サンプルテキスト [4]

アゼルバイジャン語入力方法
テキストはキーボードをアゼルバイジャン語に設定(左:ラテン文字/右キリル文字)して入力する。タスクバーにはISO 639-1の言語コードでドイツ語を表す「AZ」が表示される。


関連リンク・参考文献
アゼルバイジャン語
- YouTube Learn to speak Azerbaijani
- Azeribaijani radio and news
- International news
- 『モッラー・ナスレッディン』紙 デジタルアーカイブ 東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 情報資源利用研究センター
注
- ^ 林徹(1988)「アゼルバイジャン語」『世界言語編(上)』(言語学大辞典,第1巻,三省堂)
- ^ 林徹(1994)「アゼルバイジャンにおける文字改革の行方」『アジア・アフリカ言語文化研究所通信』80
- ^ 松長昭(1999)『アゼルバイジャン語文法入門』(大学書林)
- Omniglot: ^ Azerbaijani