悉曇文字 サンスクリット siddhamātṛkā

悉曇は siddhaṃ の漢字音写で,悉談,悉檀,悉旦,悉駄,七旦,肆曇などとも音写される。古代インドから中国を経て日本へ伝えられた梵語(サンスクリット)の一種。狭義には 12 母音のみを指し,広義には悉曇文字全体,および,その研究・学問をも含めて悉曇と呼んでいる。
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法隆寺貝葉心経 [拡大] |
悉曇学の国語学に及ぼした影響は大きく,五十音図の成立も悉曇の影響を受けたものと考えられている。悉曇は非常に整った音韻組織図をもっていたので,その諸原理が国語音韻研究の基礎的な理論としても採用されたわけである。このような悉曇の知識を利用して国語研究を推し進めていった学者として,鎌倉時代では仙覚,江戸時代では契沖が有名である。明治以降は欧米で発達した梵語 (Sanskrit) 学の研究が輸入され,今日に至っている。 [1]
文字構成
母音文字
母音文字は摩多(また)と呼ばれる。狭義の摩多は通(つう)摩多と呼ばれ,12 字である。これらに母音記号(後述の阿点を含める)をつけると 12 種に変化し,これを「12 韻, 12 転する」という。さらに,別(べつ)摩多と呼ばれる4文字(青字で示す)を加えた 16 字が広義の摩多ということになる。
子音文字
子音字は体文(たいもん)と呼ばれるが,声(しょう)ともいう。5類声 25 字と遍口声8字(青字で示す)とに分類される。5類声は,大体,調音点の分類に相当する。軟口蓋音は喉音と呼ばれ,硬口蓋音は齶音と呼ばれる。そり舌音は断音と呼ばれる。歯音は歯音で,両唇音は唇音と呼ばれる。遍口声は,大体,調音法と子音連鎖の例とに相当し,10 種類の文字が含まれる。接近音(あるいは半母音)の /ya/ /ra/ /la/ /va/,および摩擦音の /śa/ /ṣa/ /sa/ /ha/,また,子音連鎖(重子音字)の /llaṃ/ /kṣa/ とからなる。 /llaṃ/ は同体重字の例で, /kṣa/ は異体重字の例として加えられたものといわれる。最後の例は,子音字が a 母音を含まないことを示すために,ヴィラーマと呼ばれる符合を文字の下に付加したものである。音組織についてはデーヴァナーガリー文字を参照。
悉曇文字の性格と字義
悉曇文字は音節文字であるとされているが,智広の「悉曇字記」 [2]などでは, 12 母音のみを単独に発音できるものとして,悉曇と称し,35 の子音字は,その文字のみでは発音できない不完全なものとして悉曇から除外している。その意味では,悉曇文字は他のインド系文字よりも単音文字の性格の強い文字であるということができる。したがって,純粋の単音文字と純粋の音節文字との中間に位置するとしばしばいわれる。悉曇文字は本来表音文字であるが,仏教界では古くから悉曇文字に意味を割り当て(表意文字として),そうした字義を「字門」として伝承してきた。当該字母の音節を語頭あるいは語中に含む単語を選んで,その字義としたものが多い。
また,1文字にその主尊を象徴する文字をあてることを「種子」と呼ぶ。各種の種子を曼荼羅の各尊の位置に画いたものを「種子曼荼羅」あるいは「法曼荼羅」と呼ぶ。
半体字
同一あるいは異種の子音字が2つ以上上下に合体する際,各字の原形をそのまま重ねる場合と,その文字の省略形(半体)を使用する場合がある。各体文の上半体(上半分)と下半体(下半分)を切継(きりつぎ)して合成字(重字)を作る方法を一般に「悉曇切継・悉曇点画」と呼ぶ。次に ra + 子音字,子音字 + ra, na 字の半体の例を挙げる。
筆順
筆順の最初に,阿点もしくは命点(みょうてん)と呼ばれる一点を打つが,この点は書き上げた字では線に吸収されてしまい,点としては残らない。これは,子音字に本来 a 母音が含まれているという悉曇文字の特徴を具体的に表現しようとする筆法であって,平安時代に我が国で創案されたものといわれている。
諸記号と数字
サンプルテキスト

板塔婆の例(実際は縦書き)。正面は胎蔵大日如来をあらわす五大種子を書き,裏面は,金剛界大日如来の種子に続けて下記のような悉曇を書く。意味「随具菩薩よ,減悪趣菩薩よ,穢土を浄土となし,地獄の苦しみを救済し,吉祥あらしめたまえ」
『梵字般若心経』 【出典』田久保(1982) [4],徳山(1992) [5]
テキスト入力
文字コードと入力方法
悉曇文字フォント Muktamsiddham は,インドの情報処理用標準キーボード配列に準じているので,たとえばキーボードをヒンディー語に設定して,悉曇文字を入力することが可能である。合成字(重字)は,子音字+ヴィラーマ(U+094D)+子音字+母音記号の順に入力する。デーヴァナーガリー文字の「入力方法」を参照。
関連リンク・参考文献
- 中西コレクション(国立民族学博物館)悉曇文字
梵字 | 悉曇学
- Omniglot: Siddham script
- 奈良国立博物館 悉曇蔵
- 東京国立博物館 梵本心経および尊勝陀羅尼
- 現代悉曇
注
- ^ 壇辻正剛(2001)「悉曇文字」『世界文字辞典』(言語学大辞典,別巻,三省堂)
- ^ 東京外国語大学学術成果コレクション 『悉曇字記』。このDjVu Multi File フォーマットのファイルを閲覧するにはDjVuプラグインが必要。同プラグインはアジア歴史資料センターのサイトからも入手できる。
- ^静慈圓(2010)『はじめての「梵字の読み書き」入門』(セルバ出版)
- ^ 田久保周誉著,金山正好 補筆(1982)『梵字悉曇』(平河出版社)
- ^ 徳山暉純(1992)『梵字四十九院・五大・心経』(木耳社)