世界の文字
漢字 ― 金文 英 Kanji - Chinese bronze inscriptions
殷代の文字資料で圧倒的多数を占めるのは甲骨文字であり,それに次ぐのは金文である。金文は,主として青銅器に鋳込まれた文字のことで,普通には容器や楽器の表面に表わされた文字を指す。これらの青銅器の多くは祭祀用具であり,とくに容器は彝器と呼ばれて宗廟に備えておく祭器であった。また,楽器の鼎と楽器の鍾をとって,金文のことを鍾鼎文ともいう。
商(殷)代
金文は殷代後期に始まり,周代において最高潮に達する(ほぼ前 16 世紀~前 11 世紀)。ただし,殷代では金文の内容は非常に簡単で,主に作者名や祭祀の対象となる先人の称号を記したわずか 5~6 字のものが多く,晩期の長文のものでも 40 字を越えるものはない。
司母戊鼎
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中国国家博物館蔵の「后母戊大方鼎(后母戊鼎)」[Mlogic / CC BY-SA 3.0 / 出典] |
1939 年河南省安陽市武官村出土(高さ 133 ㎝ 口の長さ 110 ㎝ 口の幅 79 ㎝ 重さ 832.84 kg
)。いままで中国で発見された中で最も重い古代青銅器で武官村西北崗の王陵地域で盗掘によって発見された。しかし,あまりにも大きくて重いため,掘り出しきれず,1946 年に再発掘して南京博物館に納められた(現在は中国歴史博物館
)。
后母戊鼎
銘文は「司母戊(シボボ)」と読むのが一般的である。解釈はいろいろあって確定していないが,「戊」は廟号,「司」については,,これを女性の姓と見る説と「祠」と見る説などがある。[永田]参 照 Baidu: 銘文
西周春秋文字
西周時代(前 1122 頃~前 771)と春秋時代(前 770~前 403)の主要な文字資料としては金文があり,他に注目すべきものとしては甲骨文と盟書がある。西周時代は金文の全盛期で,周王朝の貴族や臣僚が自らの戦功や王からの賞賜あるいは官職を拝命したことなどを記念して製作したことを記し,100 字を越える長文のものが増加してくる。西周後期の散氏盤は 350 字,毛公鼎に至っては 479 字にも達している。この傾向は春秋時代の列国の金文にも継承されるが,西周に比べると長文のものは少なくなる。
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西周金文 (B.C.1070頃~B.C.771年) 大克鼎上的金文 [Dake / Public Domain / 出典] |
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大克鼎 [Посмотреть информацию об авторе / CC BY-SA 3.0 / 出典] | |
盟書
盟書の資料には,1965 年に山西省候馬市の春秋時代の普の都城遺址で発見された,いわゆる候馬盟書がある。普と趙との盟誓の文を玉片や石片に毛筆で朱書(一部墨書もある)したもので,時代は春秋晩期に属す。[永田]
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山西博物院收藏的侯馬盟書之一 [Unknown / Public Domain / 出典] |
大孟鼎と銘文
内壁に 19 行 291 字の長い銘文があり,周代の縣としては現存するものの中で最大(高さ 102 cm,上部の口径 78 cm,重さ 154 kg)紀元前 11 世紀頃。主要な内容は,周の康王がすぐれた武将であった孟に対して,父祖の官職を継いで職務にいそしむようにとの訓戒をあたえ,あわせてこれまでの忠誠の褒賞として軍馬や衣服などを下賜されたことを記念して,孟が祖先を祭るこの縣を作った,ということである。
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西周金文 大盂鼎,銘文 拓本 [:Mountain / Public Domain / 出典] |
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大盂鼎 [Baomi / CC BY-SA 4.0 / 出典] |
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金文の初期のものには,甲骨文字とほとんど同じ時代のものがある。しかし,甲骨文の書体が鋭い直線で構成された契刻体であるのに対して,金文は肥筆といって肉太でふくらみをもった毛筆の筆跡を多分に残しており,素朴な力強さがあって非常に対照的である。その違いは,それぞれの文字の記録方法による。甲骨文字は骨や亀の甲羅に鋭いナイフで刻み付けたものであるのに対し,金文は木板や皮革の上に筆と墨で書き付けたものから作った型を使って鋳造したためである。[阿辻 2009 p. 60]
毛公鼎
大孟鼎は 300 字近い長文の銘文を持つが,同じく清の道光年間に岐山の麓から発見された「毛公鼎」には,それよりもさらに長く全部で 32 行,497 字に及ぶ,現存の青銅器では最長の銘文がある(高さ 53.8 cm,上部の口径 47.9 cm,重さ 34.7 kg)。毛公鼎の銘文と上から見た毛公鼎。[阿辻 1989]
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毛公鼎铭文拓本 [陈介祺或其门人 / Public Domain / 出典] | |
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毛公鼎,西周时期,國立故宫博物院館藏 [ason22 / CC BY-SA 4.0 / 出典] | |
散氏盘
中国出土の口径 50.5 cm,高さ 20.5 cm の盛水用青銅器。盤の内側には 349 字の銘文があり,内容は西周(周)後期のそくの国と散の両国間の境を定めた契約書となっている。
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《散氏盤》的銘文拓本 [Public Domain / 出典] | |
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《散氏盤》[ Jason22 / CC BY-SA 4.0 / 出典] | |
利𣪘
1976 年 3 月上旬,陜西省臨潼県の零口公社西段大隊が,耕作中に多数の銅器をを発見し,その中に方形の台座をもち,緑青で覆われた𣪘とよばれる一つの祭器(高さ 28 cm,口径 22 cm,重さ 7.95 kg)があった。器の内底には,4 行 32 字からなる銘文が鋳込まれていた。後に作器者の名をとって利𣪘と名づけられた。
この銘文は,『尚書』牧誓などに,周の武王が殷を滅ぼしたのが「甲子の朝」であったという記述と合致しいる。このことから,「牧野の戦」と呼ばれる殷周革命の勝利を予言するものとして,史料的にも重要である。最初の文字「珷」は「武王」の合文である。書体は,殷の遺風を継承し,雄健でしかも雅致があり,西周初期金文の傑作といえる。[维基百科 利簋]
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利簋铭文拓片 [陇右甘南 / Public Domain / 出典] | |
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中国国家博物馆藏利簋 [Siyuwj / CC BY-SA 4.0 / 出典] | |
珷征商隹(唯)甲子朝歲鼎(貞)克昏(聞)夙又(有)商辛未 王才(在)管師易(賜)又(右)吏利 金用乍(作)旜公寳尊彜
珷(武王)は,商(殷)を征伐した。ときは甲子の日,明け方に歲と鼎の祭儀を挙行し〔勝利を祈願し〕た。天意をよく聞きただし,商の軍隊を夙有(震えあがらせ)たのである。辛未の日,武王は管の軍の駐屯地におられた。王は,有事の〔官職にある〕利にほうびとして金(銅)を賜った。それにより利は旜公貴重な祭祀用器を作った。[福田]
秦系文字
始皇帝の時代になると,始皇 26 年(前 221)の度量衡統一の詔を刻した多数の権や量の存在が知られている。戦国時代から統一後の秦の金文の多くは,刀で刻された刻文である。なお,権ははかりの分銅,量はます。虎符は軍隊を発動させる際に証明として使用する割符をいう。
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秦漢金文 (B.C.221年~A.D.219年)廿六年詔権量銘全文 [Unknown / Public Domain / 出典] |
金文フォント
中研院金文
金文フォントは,文献処理実験室 サイトから 古漢字字型2.4版 をダウンロード・解凍して取り出したフォントの中から,《中研院金文》を用いる。ここに掲載した文字は,白川静『字統』を参考にした。
白川フォント
「白川フォント」は,立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所が開発した古代文字フォントの略称。下図は『令彝』の冒頭 3 行を,「白川金文」を使用して印字した例文である。一部の文字は上掲「中研院金文」を用いた。また,注 1 は呆の上に王,注 3 は止の下に口が付き,注 2 は干と弓が逆になる形が正しい字形である。青枠は漢字に対応する金文の字母が両フォントともに含まれていないものである。
- 永田英正 (2001)「漢字」河野六郎 [ほか] 編著『言語学大辞典 別巻 (世界文字辞典)』三省堂.
- 阿辻哲次 (1987)『図説漢字の歴史』大修館書店.
- -- (2009)『漢字文化の源流』丸善.
- 白川静 (2007)『文字講話』平凡社.
- 福田哲之 (2003)『文字の発見が歴史をゆるがす』二玄社.
関連サイト
[最終更新 2022/08/05]