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【地球ことば村・世界言語博物館】

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世界の文字

漢字 ― 隷書体 英 Kanji - Clerical script

楷書(左), 隷書(右) [Clerical_Eg.png: / Public Domain / 出典]
隷書は戦国時代の秦の俗字体を基礎にして漸次形成され,戦国後期にはすでに基本的な形が出来上がっていた。しかし,秦代ではあくまでも小篆が主要な書体で,隷書は補助的書体に過ぎなかった。隷書の隷は臣隷を指し,隷書は臣隷たる役人の使用する文字であるという説がある。筆画,筆法の複雑な小篆に比べて,隷書は書写に適した書体である。やがて小篆は隷書に取って代わられ,漢代に入ると隷書が主要な書体となった。

漢初の早期隷書の時期を経て,やがて隷書は成熟期に入る。文字資料としては,石刻,簡牘,帛書のほかに,銅器,漆器,陶器,甎瓦せんが上の文字から,さらには墓壁の題字等までその種類は多い。

石刻

開通褒斜道刻石

陝西省,褒城県の褒谷から,眉県の斜谷に通じる褒斜道は関中から蜀に出る重要な古道であったが,その開通を記念して記された摩崖。摩崖とは,天然自然の厳壁を利用して,これに文字や画を刻したもの。永平 9 年(66)[小原]

参 照 漢開通褒斜道刻石 国立国会図書館内/図書館・個人送信 (閲覧には,国立国会図書館の「利用者登録(本登録)」が必要)

簡牘

簡牘は,漢代でもなお主要な書写材料であった。紙が書写材料として使用され始めるのは後漢も晩期以降のことである。漢代の簡牘はその出土場所から敦煌や居延などの辺境の軍事的遺跡と,内郡の墓中の2つに大別される。前者は公文書,後者は書籍および遺策が主たる内容である。

帛書

帛書は 1973 年に前漢早期の馬王堆 3 号墓で大量に発見された。内容は書籍で,早期隷書の格好の資料である。成熟した隷書は,起筆の打ち込みと収筆の波磔はたく<\rt>(起筆の部分を,とくに太くしたり,長くしたりして,強調すること)に診られる特色のある筆法を備えており,このような書体を八分はっぷんとも称している。

老子甲本(前漢前期)

2000 年前の女性の屍体が発見されて注目された馬王堆出土の文献の一つ。馬王堆の『老子』には甲本と乙本の 2 種類がある。甲本は『老子』のあとに未知の文献 1 種が続けて書かれており,字数は計 464 行,13,000 字あまりあるが,使われている文字は小篆から隷書に移る過渡期,つまり隷書の中間的な書体で,それを「草篆(くすじた篆書)とも呼ばれる。一方,乙本の方は『黄帝四経』といわれる文献のあとに書かれており,字数は計 152 行,16,000 余字で,こちらの書体ははっきりとした隷書である。[阿辻]

参 照
図版 馬王堆三号漢墓帛書『老子』乙本・巻前古佚書 (閲覧には,国立国会図書館の「利用者登録 (本登録)」が必要)

碑文

碑文では,石門頌,乙瑛碑,礼器碑,史晨前後碑,西岳崋山廊碑,曹全碑や熹平石経などは八分の筆法を備えた隷書の典型と目され,かつては隷書の成熟期を後漢時代の後期においていた。しかし,近年,多量の居延簡,敦煌簡の発見により,前漢の昭帝から宣帝の頃には隷書はほぼ完成の域に達していたことが知られるようになった。

曹全碑

曹全碑そうぜんひ(八分隷)の全名は『郃陽令曹全碑こうようれいそうぜんひ』という。建碑は中平 2 年(185 年。明の隆慶から萬暦の間に陝西省郃陽県の旧城から出土した。

端正かつ優美な隷書で書かれていることから書道の手本によく学ばれたもので,日本にも江戸時代に拓本が伝わった。[阿辻 p. 80]

曹全碑』(部分) [Unknown / Public Domain / 出典]

隷書は後漢末になって,行書,楷書へと発展していく。碑文中に典型的に見られる八分の筆法を有する隷書は実用的ではなく,実際には,これをさらに簡略化してのちの楷書に近い書体で書くようになる。この傾向は簡牘の文字によって知ることができるが,碑文でも流麗な書体からしだいに方整な書体へと移行していくことが認められる。曹全碑などがその例である。

乙瑛碑

乙瑛碑いつえいひ(八分隷)の全名は『魯相乙瑛置孔廟百石卒史碑ろしょういつえいちこうびょうひゃくせきそつしひ』などという。建碑は永興元年(153 年。山東省曲阜の孔廟に現存する。碑文は,全 18 行,各行 40 字で,内容は,桓帝のとき,魯国の相であった乙瑛の申請によって魯の孔子廟に百石の卒史そつし(漢代の書記の官名)を置いて廟を守らせることになった次第,およびその関係者の功績を記したものである。結体は緊密で謹厳,筆力は雄健で波磔は力強く,漢代の隷書の中でも優れた碑である。[阿辻 p. 81]

参 照 乙瑛碑 - 文化遺産オンライン

熹平石経

熹平石経きへいせきけいとは,後漢代後期に洛陽城南太学門外に立てられた儒学七経の石経である。一字石経,今字石経とも呼ばれる。記録に残る最古の石経で,同時代の儒者蔡邕の揮毫と史書は伝える。

熹平石経残石 (中国国家博物館蔵) [Editor at Large / CC BY-SA 2.5 / 出典]

西嶽華山廟碑

霊山として崇拝された西嶽の神霊を称える石碑の銘文で,書者は北周を代表する能書の趙文淵である。隷書の用筆を基本として,篆書や楷書の造形を交えるいわゆる雑体書で,この手の様式が当時の碑銘にまま見られる。原石は陝西省華陰市の西嶽廟に現存する。[西嶽華山神廟碑]

『西嶽華山廟碑』[Public Domain / 出典]

三体石経

三体石経さんたいせっけいとは,中国の三国時代,魏で正始年間(240~249 年)に刻まれた,五経を記した石碑。儒学では「経典」を「けいてん」と読むため「石経」は「せっけい」と読むのが正しい。建碑年の元号により「正始石経」とも呼ばれる。古文・篆書・隷書の 3 つの書体により共通のテキストが書かれていることから,俗に「中国版ロゼッタ・ストーン」といわれる。刻み方はまず 1 字について上から古文→篆書→隷書の順に刻み,次の文字をまたその下に同じ順番で刻むという形式になっている。[Wikipedia: 三体石経]

三体石経 (台東区立書道博物館蔵 断片拓本) [Unknown / Public Domain / 出典]

隷書フォント

下記の例は,書家の青柳衡山氏が書いた文字をもとにした隷書体の毛筆フォント青柳隷書しもを用いたものである。例文は Web漢字体系 から引用。



関連サイト

[最終更新 2022/08/05]