則天文字
「則天文字」あるいは則天新字。中国史上唯一の女帝となった則天武后(623~705 年),本名武照は,新しい王朝の最高権力者となった自分の権威を,王者だけに使用できる神聖な文字で示そうと意図した。この文字を実際に作成したのは武照の従姉の子にあたる宗秦客といわれ,作られた字数について説が一定していないが,主として年号や皇帝に関する用語に使う文字が多い。[阿辻: p. 174]
新規の造字とはいうものの,ほとんどが既成の漢字の偏や旁を適当に組み合わせたものである。たとえば武照の “照” として作られた “曌” は,皇帝の実名だから他人が使うことは許されない彼女専用の文字だが,それは「明」と「空」から成っている。文字の構成の背景には,自分が天空に明るく輝く太陽のように地上を永遠に“照”らしたいという思いが込められているのであろう。[阿辻: p.174]
則天文字
『昇仙太子碑』[顾心阳 / Public Domain / 出典] |
参 照 国立国会図書館 昇仙太子碑 (書跡名品叢刊 ; 第1集) <コマ番号 8>,鄭樵『六書略』阿辻 p.174,「独孤思貞墓誌の拓本」同 p. 175,正倉院所蔵「王勃詩序」同 p.176.
日本での使用例
則天文字は部分的にではあるが日本や朝鮮半島にも伝わった。例えば德川光國は 1679 年頃「德川光圀」と改名した。これは「或」の字が「惑」に通じて不吉だったからとされている。また,本国寺は光圀から一字をもらって本圀寺となっている。[則天文字]
則天文字
字数については,古くから 12 字,あるいは 19 字とするものなど,一定していなかったが,今日では次の 17 字と考えられている。字形は古文を復活したり,象形や会意の原理によって創出された。[藏中: pp. 73-74] 則天文字は,ユニコードの CJK 統合漢字拡張 B をカバーするフォント(花園明朝)に含まれる。
注
- 阿辻哲次 (1989)『図説 漢字の歴史』大修館書店.
- 藏中進 (1997)「則天文字 女帝の権力が生んだ 17 文字」『月刊しにか』8(6) (87)
関連サイト
[最終更新 2022/06/18]