琉球列島の文字 英 Writing systems in Ryukyu Islands

琉球列島における文字使用
琉球列島で文字が使用されるようになったのは,14,5 世紀の頃と推定される。その時期は,中山(ちゅうざん),南山(なんざん),北山(ほくざん)と呼ばれる 3 つの勢力がそれぞれ明への朝貢を行っていた。三山対立の時代を経て,浦添の,ついで首里の丘陵のうえに城をかまえた中山の王が沖縄島を統一し,その支配を奄美諸島,そして宮古,八重山諸島へとのばして琉球列島全体を支配する王国に成長した時期である。琉球列島に文字は中国および本土の両方からもたらされたが,国家の誕生が文字の必要を生み出すという社会の発展の一般的な原理がここでも貫かれている。
《琉球国王之印》 1662 年(尚質 15.康煕 1)国王尚質が中国清朝から授かった「琉球国中山王之印」のこと。『中山信伝録』によると〈順冶十年(1653),国王来リテ前朝ノ故印ヲ繳シ,封シテ重ネテ給センコトヲ請フ。康煕元年,冊封始メテ国ニ至リ,王ニ此印ヲ賜フ。印文六文字は琉球国王之印,左ハ満・右ハ篆,中山ト称セス。〉とある。→ 沖縄大百科事典,『中山信伝録 2』
琉球列島における文字使用を見ると,漢字・片仮名・平仮名,文字はあくまでも支配階級の独占物であり,平民にはほぼ無縁のものであった。薩摩の琉球入り(1609)以降,小さい古代的な国家に組織されたばかりの村落共同体であるにもかかわらず,検地によって重い公租を負担させられ高度に管理されるにいたった村落共同体を運営するために,文字は必要であった。
琉球列島固有の文字「スーチューマ」「カイダー字」「石刻絵文字」とは,そのような琉球列島の事情によって文字の読めない平民の便利のために使用されたものであり,首里から離れた地方の農村,離島に多いことがそれを物語っている。とくに,宮古八重山方言地域に目立つのは,首里に従属するにいたった宮古,八重山が首里王府にとって重い公租を課して収奪する対象でしかなかったことと無縁ではなく,それは文字で表わされるものが人々の納付する生産物の種類,数量,年月など,また農家の屋号,田畑,そして,労役に従事する人の数などの表示に集中していることによっても明らかである。→ 上村
漢字・片仮名・平仮名の使用
漢字・片仮名・平仮名について,琉球王府が 1713 年に編纂した『琉球国由来記』の〈片仮名〉の項には「当国,用片仮名事,自何代乎,不能考」,〈仮名〉の項でも「当国,仮名ヲ要事,従往古為有之歟,時代不能考」として,どの時代から用い始めたか不明であるとしている。〈伊呂波〉(平仮名)にも同様の記述がある。
『中山伝信録』 ちゅうざんでんしんろく
琉球に冊封使節としてやってきた徐葆光(じょほこう)の『中山伝信録』(康煕 60,1721)には琉球の字母は 47 あって,伊魯花(いろは)と呼び,舜天が王であった時(1187~1229)に初めて制定した,とある。しかし,確かな証拠はない。『中山伝信録 6』(41 ~ 44 コマ)
『中山伝信録』 | |
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英祖王の在位中の咸淳年間(1265~1274)に禅鑑という僧が那覇に来た。英祖王はこの僧に帰依し,居城である浦添城の西に補陀羅山極楽寺を創建した。これが沖縄における寺についての最初の記録である。この時,仏教とともに,漢字・仮名文字の書籍ももたらされた。明確に,かつ公的に琉球に漢字・仮名が伝わったと推測できるのはこの時ということになる。1415 年に将軍義時から中山王尚思紹に仮名書きの書簡が送られているが,沖縄側から将軍へ出した書簡も仮名書きであったであろうと推測されている。
「安國山樹華木之記」 あんこくざんじゅかぼくのきひ
尚巴志代の 1427 年(宣徳 2)8 月に建てられた沖縄における最古の漢字で書かれた金石文。碑は第二次大戦の戦禍を受け真中から二つに割れ,土中に埋まっていたが,1964 年に発掘され,現在首里博物館に保存されている。→ 塚田。 図左は 復元図
「安國山樹華木之記」 | |
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16 世紀初期の「たまおとんのひのもん」(1501),「真珠湊碑文」(1522)などの石碑類,「田名文書」第1号(1523)などの辞令書,『おもろさうし』第 1 巻(1531)などの歌謡集などでは,主として平仮名で,沖縄方言が音写的に書かれているのが特徴である。それ以後は,碑文や歴史書などは漢文で,公用文は漢字仮名交じりの和文で,組踊や琉歌などの文学作品は漢字仮名交じりの方言で書かれている。
「たまおとんのひのもん」
「たまおとんのひのもん」(玉陵碑)は,王家の陵墓たまおどんの外庭に建てられた碑文。1501 年(弘治 14,尚真 25)の建立。碑面は 90 × 35 cm,ほぼ完全な形で残っている(1969 年県指定有形文化財)。碑文の大きな特徴は,平仮名による琉球文で記され,その種のものでは現存する金石文のなかで最古のものであるとされる点にある。県立博物館所蔵。
「真珠湊碑文」 まだまみなとひもん
「真珠湊碑文』1522(尚真 46)年建立の「真珠湊碑文」は,首里城守礼門東南脇の石門西側にあったが,戦災により破壊され碑文の一部が県立博物館に保管されている。碑文の内容は,一般の交通の利便性を図ることと国土防衛の要ともいえる真珠湊を外敵から守る目的で建設された真珠道と真玉橋架橋の竣工・建設などの由来を記している。→ 沖縄県教育委員会『金石文-歴史資料調査報告書Ⅴ』1985
「たまおとんのひのもん」 | 「真珠湊碑文」 | |
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「田名家文書」 たなけもんじょ
麻氏(まうじ)宗家田名氏に伝わる文書のうち,首里王府から代々賜った辞令書をいう。全 3 巻。琉球の古文書のうち最も古く,嘉靖(かせい)2 年(1523)から道光 30 年(1850)までの 32 通(1 号~32 号)がある。37.5 × 27.5 cm の 唐紙に毛筆書きし,首里之印を押す。那覇市出身の民俗学者・言語学者であり,沖縄学の父として知られる伊波普猷(いは ふゆう)が『古琉球』(1911)で最初に紹介した。1973 年(昭和 48)6月,国指定重要文化財。
沖縄研究家の仲原善忠はこれを 3 群に分けている。① 主として平仮名ばかりで書いた 1 号から 11 号まで。薩摩侵入以前のもので,書体も躍動的でみごとである。② 漢字を主とする仮名混じり文のもので,12 号から 16 号まで。これは薩摩入り後,しばらく続く移行期のもの。③ 漢文の辞令書で,17 号から 32 号までのもの。① の例として,1537 年(尚清11),4 世真孟に賜った渡唐辞令書をつぎにあげる。→ 沖縄大百科事典
「渡閩船世継富の船頭職補任辞令書」(第 3 号) |
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志よ里の御ミ事 たうへまいる よ津きとミがせんとうハ ハゑのこお里の 一人あミくの大やくもいに たまわ里申候 志よ里よりあミくの大やくもいが方へまいる 嘉靖十六年八月二十日
[意味] 首里天加那志の御みことのり,唐へ参る世継富(船名)の勢頭(使者)は,南風の庫理詰めの天久親雲上に賜る
② の漢字を主とする仮名交じり文の例。これは 1628 年(尚豊 8),7 世真之に仕上世奉行という役職を賜った辞令書で,漢字が多くなっているのが特徴である。
首里の御ミ事 仕上世奉行ハ にしのこおりの 一人儀間の里之子大やくもいに たまわり申候 天啓八年四月二十八日
次は ③ の漢文による例で,1718 年(尚敬 6),10 世真房の領地繰替えの辞令書で,真房は武冨親雲上から渡嘉敷親雲上にかわることがわかる。
「渡嘉敷間切の惣地頭職補任辞令書」(第 22 号) |
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首里之御詔 渡嘉敷間切惣地頭者武富親雲上給之 康煕五十七年戊戌正月二十六日
田名家文書はそれぞれの時代を反映しているので,これによって,官位・官職とその変遷の研究や,『歴代宝案』と照合して海外渡航の史実を明らかにすることも可能である。
『おもろさうし』
王府の編纂になる『おもろさうし』(第 1 巻 1521 年以降全 22 巻)は,奄美沖縄方言群の歌謡共通語としての純粋に伝統的な琉球語が文字によって記録された最初の,言語史的に見ても文学史的に見ても非常に貴重な文献であるが,これも少数の漢字を含む平仮名書きで記録された。
『おもろさうし』尚家本(しょうけぼん)沖縄・奄美諸島各地に伝わる「オモロ」が,首里王府によって採録・編纂された沖縄最古の歌謡集。全 22 巻,計 1554 首。第 1 巻は 1531 年,第 2 巻は 1613 年,第 3~22 巻は 1623 年に編纂された。現在の残る尚家本のほとんどは,1709 年の首里城火災後に再編集されたものである。国指定重要文化財(沖縄県立博物館・美術館蔵)琉球大学附属図書館貴重書展
『おもろさうし』 尚家本 |
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沖縄大百科事典 |
『おもろさうし』 仲吉本 |
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「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」おもろさうし (6 ページ) |
琉歌 りゅうか
和歌にたいする語で,琉球文学のなかで,主として奄美・沖縄諸島に伝承される抒情的な短詩形歌謡の総称。
「琉歌」 |
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「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」琉歌 伊波普猷文庫 69 |
沖縄列島固有の文字
伊波普猷は,「琉球に固有の文字ありしや」という論文(前出『古琉球』に所収)の中で,『琉球神道記』(1605),『遺老説伝』(1713 頃),新井白石『南島志』( 1719),『中山伝信録』(1721)に記されている〈琉球に固有の文字があったらしい〉という記録を引照しながらも,その存在にやや否定的であり,次のように述べている。
他日浦添邊の地中からロセツタストーンのやうな金石文でも發掘されたら,琉球神道記や遺老說傳の記事は事實となるであらうが,何しろ今日の所では所謂神代文字の有無をかれこれ言ふのと等しく雲をつかむやうなものである。(明治 37 年 5 月 25 日)
『古琉球』 こりゅうきゅう
『古琉球』に掲載された文字 |
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『琉球神道記』 りゅうきゅうしんとうき
琉球における文字起源譚の最初のものは,本土からやってきた僧袋中(たおちゅう)の表わした『琉球神道記』(慶長 10,1605,全 5 巻)があり,17 種類の琉球古字を挙げている。上から十干(五行)と十二支を表わしている。この十二支文字について『琉球神道記』はつぎのように伝えている。
『琉球神道記』 |
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又昔此國ニ天人下リ,文字ヲ敎コトアリ。其字數百。其處ハ中城(なかぐすく)ノ近里ナリ。其後城間(ぐすくま)ニシテ,惡日ニ屋ヲ作ル人アリ,天人現ジテ,所の占者(うらなひしゃを)呼テ云。何ゾ惡日ヲ示サザル。占者云。我ニ尋ネズ。天云。尋ネズ共行テ教ベキヲト嗔テ。其文字ノ書ヲ半分,分裂テ,天ニ上ル。故ニ,月日ノ撰定,今ハ半アリ。半分ニシテ物ヲ占ニ正キナリ。其字少々云。→ 崎村
『琉球国由来記』 りゅうきゅうこくゆらいき
琉球王府が編纂する『琉球国由来記』(1713)にもほぼ同様のことが書かれている(巻 3 「文教門」)。
『琉球国由来記』 |
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『遺老説傳』 いろうせつでん
琉球各地に古くから伝わる民話,自然の異変,百姓の善行など,口碑伝説を集めた『遺老説傳』(1745)も同様の謂れを記している。→ 琉球大学附属図書館「デジタルアーカイブ」遺老説伝 巻 1 (3 ページ)
『遺老説傳』 |
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『中山伝信録』
『中山伝信録』では,伊魯花という文字があったことに加え,さらに「表䟽文」について次のように記している。「元の時代に琉球が支那に通じたことがあつて,其時奉つた表䟽文が高サ八寸許厚サ三分濶サ五分の木を列ねたものの上に科斗のやうな横文字の刻んだものであつたといふことである。おまけに蒙古字のやうに縦に書く日本字とは自ずから別物であるといふことまで記してゐる」→ 伊波 なお,「科斗文」とは〈おたまじゃくし〉のような文字を指し,ジャワ,スマトラ,フィリピン等で使用されていた文字ではないかという説もある。詳しくは → しるびあ たるたりーに
『中山伝信録』 |
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上掲『琉球国由来記』一行目「占い書」の下に「俗謂時双紙」という注が付いている。『時双紙』は,昭和 2 年頃中城村の旧家で発見されたが,焼失した。鎌倉芳太郎が模写したものが,現在沖縄県立博物館に保存されている。これには,十干十二支だけでなく,暦日に関することなどに独特の文字が多く使われている。また,これと同様のものに『砂川(うるか)双紙』がある。これは宮古島の砂川で発見されたのでこのように呼ばれているが,砂川以外にも友利や新里にも存在している(後述)。
ほかに,琉球列島独特の文字として,スーチューマやカイダー字がある(後述)。これは,庶民のうちの上層の人々が使ったもので,屋号や穀物や家畜とその数量を表わした。一般庶民は,藁の結び方によって数量を表わす「藁算」(八重山ではバラザン,宮古ではバラザンあるいはヤーキーザン,本島ではワラザンという)を用いた(別項「結縄」参照)。しかしながら,この藁算は文字という範疇には入らないであろうと考えられている。下図は「板札 藁算の図」(萩尾 2009)。
「板札 藁算の図」 |
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スーチューマ
沖縄本島の一部,宮古・八重山の庶民の間で,明治中頃まで用いられた数量を表わす文字のことである。広義には,屋号の記号を含むこともある。沖縄本島の国頭(くにがみ)と中頭(なかがみ)の海岸沿いの村でスーチューマとワラザン(結縄記標)を兼用する傾向があり,島尻(しまじり)地方ではもっぱらスーチューマを用い,那覇港近辺ではスーチューマを多く用いつつもなおワラザンを用い,宮古・八重山地方ではワラザンをもっぱらとし,かたわらスーチューマを用いた。
スーチューマは主に,木炭や手近にある物で,フェーパンという板に書かれた。板の長さは,短いもので約 30 cm,長いもので約 80 cm あり,幅は約 4 cm,厚さは約 1 cm ぐらいのもので,大小各種ある。厚さが薄い場合は 2 面用いて,厚さが十分ある場合は 4 面用いた。図は Chamberlain 1898 による。
「4 面に書かれたスーチューマ」 |
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金武間切漢那村(宜野座)では,金銭・米穀などの物品毎に異なる記標を使用する場合があった。次の図は,物品の数量と屋号を表したものである。→ 田代安定「沖縄県記標文字説」『東京人類学会雑誌』8 巻 82 号,8 巻 83 号
「穀物・金銭の記標」 |
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「物品の数量と屋号の記標」 |
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田代は,また,久志間切久志村(くしまぎりくしそん。現在は名護市九志)の一般の数量を表わす文字の例をあげる。各桁とも,1~4 まではその数だけ描き,5 ではその上の桁の文字の半分を描き,6~9 までは 5 の記号と 1~4 までの記号を合わせることを基本にしていることがわかる。このことから,チェンバレンは,スーチューマは 5 進法で表記されているのが特徴であると述べている(Chamberlain 1898。)→ 田代安定「沖縄県諸島記標文字説明」『東京人類学会雑誌』7 巻 78 号
「久志間切久志村の数量を表わす文字」 | |
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カイダー字
カイダー字という象形文字が使用されたのは,主に沖縄の与那国島と竹富島であった。言語を完全に表すのではなく,主に数量や所有関係を表すために,人頭税の時代に記録として使われたものである。数量記号の中に明らかな漢数字の混入も見られる。1910 年代にはまだ使われていたと思われるが,1930 年代にはすでにまれであった。現在,カイダー字が使われていた時代を覚えている人は老人に限られ,その数はきわめて少ないし,書かれたものは籠の蓋や板札と紙数枚ずつしか残っていない。カイダー字の種類は, ① 家紋のように屋号を示すダーハン(家判),② スーチューマに基づいた数量を示す文字,そして ③ 島民が独自に作った象形文字である。
下図例 1 は,ある一家が5月 29 日に保有していたもの,あるいは寄付したものの記録と思われる。次の例は,祖納(そない,沖縄県八重山郡竹富町の歴史的地名)村の複数の家庭の記録をまとめて記している例。→ マーク・ローザ Newly-Discovered Paper Records in Kaida Writing (8.24 MB)
「カイダー字例 1」 |
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「カイダー字例 2」 |
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マーク・ローザ氏によるカイダー字フォント(ベーター版)を使用して作成したカイダー字見本。なお,ニコード版の公開が予定されている。
「カイダー字見本」 |
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河村只雄が『南方文化の探求』の中で「与那国の珍しい文字」として紹介しているカイダー字。→ 河村
「与那国の珍しい文字」 |
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祖納に伝わるカイダー字
祖納村の仲里屋真武名氏が書き残したカイダー字。→ 池間栄三
「祖納に伝わるカイダー字」 |
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取引例
次の例は,与那国町教育委員会 編『与那国町の家畜耳印・家判・カイダー字・水田名』(与那国町教育委員会, 1992)に掲載された取引の記録。
「昔の取引例」 |
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板札例「貯蓄米高通知書」
「貯蓄米高通知書」 |
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貯蓄米高
三十二番地
仲大盛加那
一米七升五石九勺三才
〈カイダー字〉
明治廿九年七月九日
真栄里村□(請)首里大屋子
宮良当意 印
チェンバレンの報告
イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は,“The Luchu Islands and their Inhabitants” で与那国の文字とスーチューマを紹介して「島の人たちは漢字に示唆をえて,独自の文字を作ったのであろう」と述べている。→ Chamberlain 1895
「カイダー字」 | 「スーチューマ」 |
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鉦用の籠の底板に残されたカイダー字
喜宝院蒐集館には,カイダー字が書かれた板札の一部が,ドラ鉦を入れる籠の底板として利用されたため残っている。→ 萩尾 2009
「鉦用の籠」 | 「カイダー字板」 |
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ダーハン
与那国島では,日常生活に便宜を与える絵文字と記号の用途を広げ,家の姓を書くかわりに使用されたのがダーハン(家判)である。ダーハンは家号であり家紋でもあるのでカイダー字の一種とみなされる(下図中央は,左から,本家・分家のダーハンの例である)。竹富島では,ヤーバンの名で伝えられており,文字を知らない島の百姓に役人が与えたもののようで,島人は役人からヤーバンをもらうために,米や粟その他の贈り物をしたという。石垣島の川平では,ヤーバンだけではなく,放牧された牛の所有者を明示するためのフシヌパンガタ(牛の判型,家畜耳印)が使用されている。→ 外間 2000。上図は,高脚膳の裏に刻銘された家判(与那国民俗資料館)→ 萩尾 2009
「ダーハン」 | 「本家―分家」 | 「フシヌパンガタ」 |
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石刻絵文字
1933(昭和 8)年から 1974(昭和 49)年にかけて,沖縄本島の読谷(よみたん)村,嘉手納(かでな)町,北谷(ちゃたん)町で石版に刻まれた絵文字が見つかった。今まで 9 個の石版が発見されている。整形されたほぼ四辺形の,重さが 2~4 kg 内外の,主として変成岩系統の石である。石版には,農耕具,船,マストの上の鳥,高倉,拝殿,宝珠らしきものの絵(象形文字)や,二,七,十,×,%などの記号(数字)らしきものが刻まれている。しかし,多くのものについては,何を書いたものか十分明らかでない。なお,個々の絵や文字については,沖縄の手指に描かれる入墨,時双紙,八重山のカイダー字,スーチューマ,ヤーハンなどに見られるものがある。→ 高橋
野国総管之墓 のぐにそうかんのはか
図は,野国総管之墓付近で発見された最初の石刻絵文字(約 23 × 13 cm,厚さ 2 cm 位)。仲原善忠「野国総管墓碑について」(『琉球新聞』昭和 30 年 8 月 27~31 日)という論文は,解読のためのいとぐちを学問的に開いたものとして注目される。→ 外間
「野国総管之墓」 | ||
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仲原による解読(上図右参照)「図の最下段(A)は鎌(柄のないカマ),その上の植物(B)は甘藷の芽生え,中段右側(C)はくわ,真中(D)はすき,左側(E)は田くわ(水田用のくわ)。三つとも柄は,はぶいてある。上段右側の(F)は牛馬につけて田畑を耕起する「からすき」(沖縄名,いいざい),左側の(G)N形の物は豆などを打つ「からさお」(沖縄名,車棒)をあらわす。(B)の「いもの芽生え」をのぞく六つはすべて農具で,しかも大部は,当時としては,珍しい新鋭の農具である。」
おそらく石刻絵文字が先に存在していて,その絵を知識豊かなユタ(職業的女性祈祷師)たちが,吉凶を占うものとしてとりこみながら『時双紙』の絵文字,記標文字を作りあげていったものではなかろうかといわれる。→ 外間
ハジチ 琉球の入墨
ハジチ |
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八重山の例をみると,右手の甲の真中にある満月の図柄は家庭円満を表わし,くるぶしを覆うように施した五つの星を中心に輝いている星であって一家繁栄の内助の功を表わし,親指の甲に施した弓矢は,いったん嫁いだら矢のように行ったきりであれとの意をこめている。 → 中本
琉球が沖縄県として日本へ編入後も,しばらくこの旧習は維持されたが,明治 22 年 10 月 21 日に沖縄県にもハジチ禁止令が出されたため,ハジチの習俗は廃れた【参照】入墨
『時双紙』ときそうし
『時双紙』は,1927 年(昭和 2)年頃,沖縄本島の中城村で見つかったもので,原本は失われて,現在は鎌倉芳太郎が模写したものが沖縄県立博物館に 2 冊残っている。これと前出の『琉球国由来記』の「文字」の項に出てくる『時双紙』とどのような関係にあるか,不明である。
『時双紙』は,トキ(覡,時,日を選ぶ男)が,吉凶占いの技術上の準拠物として利用した書物。トキは,吉凶占,祭事や祝事の日取りを定める職能者で,トキ・ユタと同一の概念で捉えられていた傾向もあり,民間レベルの物知りであった。
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一番上の火(五行)は日で,丙丁を指し,其の下にある十二支はそれぞれに時を示します。又其の下の「木ふそ事」等は夫々病気の原因であります。「木ふそ事」とは木神の事と云ふ意味で,木神の祟りのこと。「手すりこと」は手摺りこと即ち俗祀,又「足かいり」はタブーの侵害の報,「神事」は氏神,「口事」は口論等の後になって災を意味します。
即ち或る病気が丙丁に日,申酉の時に起ったとすれば,その原因は氏神に関することであるといふのであります。また,亥子の時に起ったなれば,それは口事が原因であると云すのです。
「大雑書」 おおざっしょ
奄美では一名「大雑書」ともいう。主として神事・婚姻・家普請・旅立ちなどの日柄をみるのに使用された。大工などもこれを持っていた。現在,写本を含めて「永代大雑書万暦」(笠利町)や「明治大雑書万歳暦」(喜界島)などが発見されている。下図は『沖縄大百科事典』より引用。
『トキ双紙』(大雑書,瀬戸内町請阿室) |
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資料によって量に差があるが,干支と注記などに独特の絵文字や記号が用いられている。『時双紙』には,十干については絵文字らしきもので,十二支については漢字の省画や記号化したもので,注記については独特の符号で書かれている。災厄の原因を方位と時間の組み合わせで判断するような,いろいろな象形文字的な符号が書かれていたようである。その内容や記号が中国的なものか,日本本土の影響を受けたものであったかは今のところ不明である。
これらの文字は,巫者が「選日通書」(琉球王府の公的な暦書)や「時憲書」の影響を間接的に受けて記す際,石刻絵文字,スチューマ,カイダー字,入墨,絣などのデザインや符号を臨時的に用いておくという意図と,第三者には分かりにくいということによる権威付けの意図とが働いて,次第にこのようなものになったと考えられる。なお,『時双紙』は迷信,邪術だとして,王府は 17 世紀中期の『羽地仕置』以来,これを禁じる政策をとり,集めて破棄されたにもかかわらず,2,3 残存したらしい。
沖縄県立博物館所蔵『時双紙』
十干十二支の組み合わせを表す「六十図」は,具体的にどのように利用するのかは不詳である。宮古の『砂川双紙』(後述)に干支文字による「六拾図」というのがあり,表形式で生まれた年の干支により五性をきめる字を配したもので,例えば「火(丙丁)戌亥上(戌巳)山の土(戌巳)」とあるように内容も異なり,関連は不明である。→ 萩尾 1998
「六十図」 |
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「象形的な記号と干支記号による記述」 |
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ある事項やことがらをなそうとする時に,この表を参照して日取りをおこなうことになる。大部分は記号で記されている。
日取り表 |
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記号の一部を干支の文字に置き換えたものが次の表である。例えば,家を建てる場合には,この表の(3)「屋つくりによし」をみて,6 月であれば未丑辰の日が良い日となる。縦に 6 月から 5 月までの軸をとり,下の欄に各事項を記してある。
「上掲表の訳文」 |
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喜界島のトキ双紙
喜界島で代々卜占を業としてきた家柄だという我原家に伝わるトキ双紙。表に「天保四年巳十月吉日書之要六拾書」と記されている。写真左はその第一頁で
年の明け方の事/きのえつちのとの/年は寅卯の間/ ひのえつちのえかのとみずのとの/年は巳午の間/ひのとみずのえの年は亥子の間と読む。写真右は,同書の一部で,独特な双紙文字で記されたトキ双紙の部分であるが,上下が欠けている。→ 長澤和俊
「喜界島のトキ双紙』 | |
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『砂川双紙』うるかそうし
『砂川双紙』は,宮古島の砂川・友利(ともり)・新里(しんざと)に伝わる暦の一種。〈砂川暦〉とも,たんに〈双紙〉あるいは俗に〈カンパニ〉とも呼ばれる。〈天人文字〉と称する干支(十干十二支)を表す記号と,独自の記符号(砂川文字)を用いた点に特色がある,十干,十二支,暦注のほかに,立春,秋分などの二十四節季,吉凶を示す十二直が記されている。双紙を最初に伝えた家(先祖)は双紙元といい,前の屋御獄(うたき),喜佐真(きさま)御獄なと六つがある。双紙は男子だけが伝授した。
双紙の起源については,平安中期の陰陽家安倍晴明の『金烏玉兎集』(きんうぎょくとしゅう)を九州征西府の懐良(かねなが)親王の配下,または菊池,松浦の余党が宮古にもたらしたという説(稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』,1957)と,王府時代末期に沖縄本島からの流人である玉那覇,渡嘉敷(とかしき)の 2 人が時憲書をもとにして,トキ双紙の記号(天人文字)と砂川文字とを用いて創案したという説(岡田芳朗『日本の暦』,1972)があるが,選日と卜占に使用する点,天人文字使用の点などからトキ双紙の系統をひくものという見方が強い。現在,6 種の双紙が県立図書館宮古分館に保存されている。→ 沖縄大百科事典
「砂川双紙」 |
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上図は夫婦相性の吉悪を示したもので,上段は双紙文字や象形符号を用いて無学者にも容易に卜占判断を会得せしめるようにし,下段は上段の説明を普通の和文で書き表したものである。黒色の人形は男性を表し赤色の女性を表す。花を生けた鉢は盛運繁昌を示し菊花の形をしたのは小判を表し富貴を示す。火鉢に二本の箸のあるのは貧相を示し鋸形は夫婦喧嘩殺生を示す。右端より解釈すれば,→ 稲村
男金性女人性大いにわろし,子壱人あり共「不明」悪報とがみ神をまつりてよし 男かね性女土性大いによし子は五人か九人あり万事共によし富貴してよし,下人多く命長し(省略)
崎村弘文『琉球の古典籍三題』所収の砂川双紙の一部。→ 崎村
「砂川双紙」 |
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「年徳神及び年の明方」 |
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上図左は,年徳神及年の明方を示すものである。→ 稲村
上段:天福至来して 福徳長命也 年徳神 一年の明方 知る事如是
下段:戊甲の年は寅卯の間 庚乙の年は申酉の間 辛丙の年は巳午の間 丁壬の年は亥子の間 癸巳の年は辰巳の間
人の性に依る家作の年の吉凶判断
双紙ト占法では家作の吉凶判断は随分重要視されたようで何れの双紙にもその記録があり,また実用も多かったようである。→ 稲村
「家作の年の吉凶判断」 | |
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『前の屋御獄双紙』
下図は,『前の屋御獄双紙』と呼ばれる双紙の一部(六十図)である。双紙文字は,十干十二支を表した干支文字 17 字と,数を表す多くの数文字,そして,個々の物を表すための象形文字からなっている。→ 城辺町史編纂委員会 編城辺町史 第 1 巻(資料編)城辺町, 1985
『前の屋御獄双紙』 |
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参考文献
- 伊波普猷「琉球に固有の文字りしや」『古琉球』(初版,沖繩公論社)NDL インタネット公開 (134 コマ以降)
- 伊波普猷『ユタの歴史的研究』青空文庫 (初出:「琉球新報」1913 大正2)
- 大山仁快(1973)「沖縄の古書--新発見の蔡鐸本「中山世譜」など」『月刊文化財』 (通号 121)
- 沖縄県立博物館 編(1993)『刻まれた歴史-沖縄の石碑と拓本 : 企画展』(沖縄県立博物館)
- 『おもろさうし』 琉球大学附属図書館「デジタルアーカイブ」おもろさうし 仲吉本
- 国立国会図書館レファレンス事例詳細「カイダー文字」について書かれた文献はあるか。
- 国立国会図書館レファレンス事例詳細砂川双紙(うるかそうし),時(とき)双紙について知りたい。
- 須藤利一(1944)『南島覚書 (南方叢刊)』(東都書籍)NDL インターネット公開
- 新田重清(1976)「沖繩県中頭郡発見の「線刻された石版片」について」南島史学会 編『南島: その歴史と文化』(国書刊行会)
- 東恩納千鶴子(1973)『琉球における仮名文字の研究』(球陽堂書房)
- 外間守善(2000)「沖縄の文字文化」『沖縄の言葉と歴史』(中央公論新社)
- 琉球大学附属図書館 琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ
- Rosa, Mark (2007) Kaida Character Dictionary. 『東京大学言語学論集 26』
- マーク・ローザ(2011)「知られざる沖縄のカイダー字」町田和彦編『世界の文字を楽しむ小事典』(大修館書店)
注
- 池間栄三(1972)『与那国の歴史』(琉球新報社)掲載
- 稲村賢(1957)『敷琉球諸島における倭寇史跡の研究』(吉川弘文館)
- 上村幸雄(2001)「琉球列島の文字 I. 総論」『世界文字辞典』(言語学大辞典,別巻,三省堂)
- 沖縄大百科事典刊行事務局 編(1983)『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社)
- 河村只雄(1939)『南方文化の探究』(創元社) NDLインターネット公開
- 佐喜真興英 著, 比嘉政夫, 我部政男 編(1982)『女人政治考・霊の島々』佐喜真興英全集(新泉社)
- 崎村弘文(1992)「琉球の古典三題:本土文献の引用と変容」『語文研究 73』
(903 KB)
- 徐葆光「中山伝信録」沖縄県立図書館 編『中山伝信録』(沖縄県立図書館) 1977,早稲田大学図書館古典籍データーベース
- しるびあ たるたりーに(Tartarini Silvia)(2009)「古琉球における文字の導入・使用について」『桜美林論集 36』
- 高橋俊三(2001)「琉球列島の文字 II. 琉球列島固有の文字」『世界文字辞典』(言語学大辞典,別巻,三省堂)
- 田代安定「沖縄県記標文字説」『東京人類学会雑誌』7 巻 78 号,8 巻 82 号,8 巻 83 号
- 塚田清策(1968)「沖縄の安國山樹華木之記碑の研究」『信州大学教育学部紀要 20』
- 長澤和俊(1971)「奄美のトキ双紙について--奄美日柄見資料集成」鹿児島国際大学附属地域総合研究所 編『南日本文化 (4)』(鹿児島国際大学附属地域総合研究所)
- 中本正智(1984)「琉球の文字文化」『民博通信 25』
- 萩尾俊章(2009)「与那国島のカイダー字をめぐる一考察」『与那国島総合調査報告書』(沖縄県立博物館・美術館)
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- ―(1998)「[時双紙]の記載形式と内容をめぐって」『沖縄県立博物館紀要 第24号』
(2.18 MB)
- 外間守善, 波照間永吉 編著(1997)『定本琉球国由来記』(角川書店)
- 外間守善(2000)『沖縄の言葉と歴史』 (中公文庫 中央公論新社)
- マーク・ローザ(2009)「八重山象形文字・カイダー字の新しい発見」『月刊みんぱく』(国立民族学博物館,2009年7月,通巻382号)
- 屋良朝陳, 桑江克英 訳(1937-8)『琉球王代文献集 第 1 輯』(琉球王代文献頒布会, 昭 12 至 13)
- 与那国町教育委員会 編(1992)『与那国町の家畜耳印・家判・カイダー字・水田名』(与那国町教育委員会)
- Chamberlain, Basil Hall(1895)‘The Luchu Islands and Their Inhabitants’. The Geographical Journal, vol. 5, no. 4-6.
- -- (1898)‘A Quinary System of Notation Employed in Luchu on the Wooden Tallies Termed Sho-Chu-Ma’. The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland, vol. 27. pp. 383-395.