パスパ文字 英 ʼPhags-pa script

13 世紀の初め頃から,モンゴル人はウイグル文字を使ってモンゴル語を表記していたが,元の世祖フビライは,自らが創設した元を世界帝国とするべく,それにふさわしい新文字の製作を,チベット人僧侶パスパ('phags-pa)に命じた。パスパは,チベット文字の楷書体にあたる「有頭字」を基に,表音節文字である新文字を考案した。この文字は字画が四角いことから方形字とも呼ばれる。(「パスパ」は元代西蔵音の漢字音訳である「八恩巴」に基づくもので,現代語音は「パクパ」である。)この文字が公布された至元6(1269)年の詔書中では「蒙古新字」,『元史』では「蒙古国字」「新国字」と呼ばれる。これ以降,公文書,印章,貨幣,右図の符牌あるいは牌子(パイツ) [1],さらに碑文など,すべて,この新文字によって表記される建前となった。また,パスパ文字シナ語資料としては,『百家姓』 [2]や,もっとも重要な資料として『蒙古字韻』 [3]がある。 [4]
しかし,実際にはこの文字は,個々の音を写すのに,旧来のウイグル文字式の蒙古文字に比べてはるかに正確なものであったが,その反面,煩雑で書きにくかったため,一般には旧来の蒙古文字がさかんに使用されていた。やがて,元が滅亡すると共に,この文字の使用も絶える。
文字組織
チベット文では左から右への横書きであったのを,パスパ文字はウイグル式蒙古語と同じように左から右への縦書きにしたところに大きな特徴が見られる。字母の多くは,チベット文字と酷似しているが,チベット文字にはない子音文字 q, ɣ や,母音文字 ö, ü, ė を加えている。音節の切れ目は,チベット文字のように小点を付して示すのではなく,CV もしくは CVC の基本音節を連書し,次の音節との間に切れ目を置くことによって示す。2つ以上の文字を連書する場合,多くは,右端(一部の文字では中央)の線を連ねることによって文字どうしを連結し,ひとまとまりとする。
縦書きし,右行する点は蒙古文字と同じであるが,子音字は語内の位置に応じて字形を異にすることはなく,1文字1音価であるから,蒙古語の表記では,蒙古文字よりはるかに正確な表記が可能である。したがって,この文字により蒙古語を表記した資料は,中期蒙古語の貴重な資料と位置づけられている。

この文字は蒙古語以外の複数の言語を表記するのにも用いられ,そのため,機械的な「翻字」と表記対象となった言語の音韻体系を考慮した「転写」を区別する必要が生じるのは,ソヨンボ文字と同様である。右図は,敦煌千仏洞にある「オーム・マニパドメフン」の陀羅尼を刻した「莫高窟碑」で,パスパ文字を含む六体字が配置されている碑である。 [5]
以下に,パスパならびに関連文字の字母を示す。 [6]
母音字母表
母音字には語頭形と語中・語末形がある。インド系文字と同じで,子音字は単独で表記される場合,必ず a を伴うので,a の語中形はない。以下では,蒙古語を表記した形式と漢字音を写した形式を示す。斜線の左が翻字,右が転写である。

各種パスパ文字
「アーリヤ・バンディタの書物」 [7]にはパスパ文字が3種類掲載されている。1つはこれまで見てきた主としてモンゴル語を表記する文字で,他の2つはシナ語とチベット語で用いられたものである。
パスパ文字モンゴル語表記
パスパ文字の諸資料のなかでもっとも多いのは,モンゴル語をしるした聖旨碑の類である。下に『1314 年ブヤントゥ・ハーン聖旨碑』を模したものを挙げる。パスパ文字・転写・モンゴル文字は呼格吉勒图 (2004),訳文は中野 (1994) による。
パスパ文字シナ語・チベット語表記
パスパ字創製後,程なくしてその篆字母が恐らく漢人によって考案された。但し,篆刻化は極めて自由であり,従って各資料に見える個々の字体は必ずしも一致しない。パスパ文字でシナ語を刻した印章は,いまのところかなり発見されている。それらはいずれも官印であって,シナ人の名を刻したものは一つも発見されていない。右図は,1981 年に日本で発見されたパスパ文字印の印影である。1行目(左側)kuan kĭum 2行目 tsung-pa-yin と転写され「管軍総把印」と読める。 [8]
下図(下14)は,「アーリヤ・バンディタの書物」に掲載されている例で,右上にパスパ文字,左上にランジャナ文字が見える。

元朝は 14 世紀に滅亡し,したがってフビライ・ハーンによって国字と定められたパスパ文字は,それきり,モンゴル人によっても,シナ人によっても使われなくなった。しかし,ラマ寺院では依然として使われることもあったから,ラマ僧の手をへてチベットにはいり,「チベット印章文字」として使用された。右図は「元八思巴字篆書官印輯存」に収められている「大宝法王」玉印である。1行目(左側):phags-pa 「聖者」,2行目(中央):rin-chen 「大宝」,3行目(右側);bkra-śis 「吉祥」と漢訳されるが,確かなことは不明である。
下図(上 15)は「アーリヤ・バンディタの書物」に載っている例で,左側がパスパ文字である。

パスパ文字入力
ユニコード
パスパ文字のユニコードでの収録位置は U+A840..U+A87F である。
モンゴル語表記用フォント(Phags-pa Book)

シナ語印章用文字(Phags-pa Seal)

チベット語印章用文字(Phags-pa Tibetan)

パスパ文字表示テスト
下表右下セルにパスパ文字が正しく表示されない場合は,ユニコード対応フォント [9] をインストールする。(表示は使用するフォントにより左側の書体と異なる場合がある。)
正しい表示 | お使いのコンピュータでは |
![]() | ꡎꡞ ꡅꡞ ꡎꡦꡠ |
入力方法
パスパ文字用のキーボード設定用ファイル Phags-pa.zip をダウンロードする。解凍したファイルの中の setup.exe をダブルクリックすると,キーボードプログラムがインストールされる。ダウンロードサイトに掲載されているKeyboard Layoutと,スクリーン・キーボードを参照し,テキストを入力する。タスクバーには「OL(Other Language)」が表示される。文字の書字方向「下への縦書き・右へ行移り」を Windows の Word2007 上で実現するには,[縦書きと横書きのオプション(X)] から「縦書き(モンゴル語)」を選択する。【参考】 多言語環境の設定




関連リンク・参考文献
地球ことば村「ことば村・ことばのサロン」 「モンゴルの言語と文字の歴史」
Phags-pa script | 八思巴文 | Imperial Seal of Mongolia
- 中西コレクション(国立民族学博物館)パスパ文字
- Omniglot: Phags-pa alphabet
- BabelStone: Phags-pa Script
- パスパ文字('Phags-pa script)を知る
- 山西省交城県石壁山玄中寺の八思巴文字蒙古語碑文の解読
- Google画像検索
- YouTube Phags Pa
注
- ^ 牌子は,交通制度を整理するため,駅站(えいきたん)を設け,公用の旅行者にはそれを証明するパスポートとして発行したもの。The Nyuki pai-tzu. Poppe, Nicholas (1957) The Mongolian monuments in h'Pags-pa script. (Wiesbaden : Harrassowitz)
a) b) 1. dėŋriyin kʽučʽundur 1. boltʽuqayi kʽen ülu bu- 2. moŋqa 2. širegn aldaqu ükʽugu 3. qa·an nere qutʽuqtʽayi - ^ 日本元禄十二年復刻元秦定二年完本「事林広記蒙古百家姓」罗常培, 蔡美彪编著 (2004)『八思巴字與元代漢語』(北京 : 中國社会科学出版社)
- ^ [(元)朱宗文撰] (1956)『蒙古字韻 : 二卷』(吹田 : 關西大學東西學術研究所)[影印大英博物館藏舊鈔本] パスパ文字の音韻を漢字で解説した書籍。
- ^ 樋口康一(2001)「パスパ文字」『世界文字辞典』(言語学大辞典,別巻,三省堂)
- ^ 呼格吉勒图, 萨如拉编著 (2004) 『八思巴字蒙古语文献汇编』(呼和浩特 : 内蒙古教育出版社)六体の文字は,最上部がデーヴァナーガリー文字でサンスクリット原文を,次がチベット文字でチベット語,3行目左から1列目がウイグル文字でウイグル語,2列目がパスパ文字でモンゴル語「
ʼo3m-m-ni1-pd-mė1-hu2ŋ / om-mɑ-ni-pɑd-mė-huŋ」,3列目が青夏文字で青夏語,4列目の漢字がシナ語「唵嘛呢八𠺗吽」の,それぞれの訳文となっている。
- ^ 中野美代子(1994)『砂漠に埋もれた文字:パスパ文字のはなし』(筑摩書房)
- ^ アーリヤ・バンディタというラマ僧が原著者といわれる『インド・シナ・ロシア・カシミール・ネパール・チベット・モンゴルの文字と沢山の図版入り目録』と題する木刻本で,19世紀のはじめごろに北京近郊のラマ寺院で出版された。タイトルに挙げた各種文字にチベット文字でその対音を付したもの(例:契丹文字)や,座禅の組み方,寺院建物・暦・履物といったものの図解を収録。 Lokesh Chandra (1982) Indian scripts in Tibet (reproduced by Lokesh Chandra from the collection of Prof. Raghuvira, Śata-piṭaka series; v. 297, New Delhi: Sharada Rani)
- ^ 中野美代子(1982)「元八思巴字官印余禄」北海道大学編『言語文化部紀要』(北海道大学)
- ^
1) BabelStone Phags-pa Book
2) BabelStone Phags-pa Seal
3) BabelStone Phags-pa Tibetan A
4) BabelStone Phags-pa Tibetan B
5) Code2000
6) Microsoft PhagsPa (Windows 7 搭載)