書写材料
木簡・竹簡・帛書
紙が発明され普及する以前に,古代の東アジアで墨で文字を書き記すためにもっともよく利用された素材は,竹や木を細長く短冊状に削った札である。竹で作ったものを竹簡,木で作ったものを木簡という。両者を併せて「漢簡/漢牘」と呼ぶ。
日本語で文字が本格的に使われるようになるのは,すでに紙が書写材料として普及していた時代(6 世紀から 7 世紀頃)である。つまり,主要な書写材料として木と紙がともに使用された「紙木併用時代」であった。紙が登場していることもあって,竹簡が使われたことはない。[1]
中国の木簡
居延出土の木簡册帳簿 ACE98 [HEI-BONSHA / Public Domain / 出典] |
木簡の中でも普通にみられる形状は,長さ約 23 cm 幅約 1 cm で,厚さ 2~3 mm ほどの短冊状のものであり,この 23 cm という長さはだいたい漢代の 1 尺に相当する。しかし,このような木簡の形状は文書の内容や,書物の場合その価値によって異なる。最も長いものは 2 尺 4 ある漢代の『春秋』や『儀礼』のような正統的な経書にみられる。また幅の方も一定していなかった。[4]
木簡の発見
今日知られる資料で最も古いものは戦国期のものであり,しかもそのほとんどが楚の国のものである。楚簡はいずれも墓中から発見されたもので毛筆で墨書し,内容は副葬品の物品名や数量を記した一種の副葬品目録である遣策のほか,卜占の記録や時日の占書,古書の断片などである。[5]
紙が書写材料として使用され始めるのは後漢も晩期以後のことで,漢牘は,漢代でもなお主要な書写材料であった。この時代の漢牘はその出土場所から敦煌や居延などの辺境の軍事的遺址と,内郡の墓中の 2 つに大別される。前者は公文書,後者は書籍および遣策が主たる内容である。[6]
1901 年,スウェーデンのスウェン・ヘディンが楼蘭遺跡魏晋代の木簡を発見,同年,イギリスのオーレル・スタインも新疆のニヤ遺跡から晋代の木簡を発見した。スタインはさらに敦煌の北側にある長城跡から漢代と晋代の木簡と少量の竹簡を発見した。これを「敦煌漢簡」と呼ぶ。[7] 1930 年,ヘディンを団長とする中国とスウェーデン合同の「西北科学考査団」は,漢代の居延城跡から 一万点以上にのぼるの木簡を発見した。これを「居延漢簡」と呼ぶ。[8]
居延漢簡:中国内モンゴル自治区エジン旗から甘粛省酒泉市の東北部にある居延烽燧遺跡から発見された前漢・後漢代の木簡。歴史資料として貴重なだけでなく,書蹟としても珍重されている。[9]
広地南部永元五年至七年官兵釜磑月言及四時簿(中央研究院歴史語言研究所(台湾)所蔵) [氏子 / CC BY-SA 4.0 / 出典] |
日本の木簡
日本古代の木簡は,何か意思を伝達したり,記録を行った「文書木簡」と,物品の管理用に付けられたものや,地方から都に送られた税物につけられた「付札木簡」,「その他」に大別される。[10]
荷札木簡(複製)。飛鳥,奈良時代,7-8 世紀。飛鳥京,藤原宮,平城宮跡出土品。 [さばしあ / CC BY-SA 3.0 / 出典] |
木簡は一般的には発掘調査によって見つかるが,中には,正倉院宝物の中にある付札のように古代から現在までそのまま伝わったものもある。付札木簡 50 点をはじめ,380 点ほどの木簡が残存している。[11]
竹簡
竹簡は,竹でできた札(簡)。ごく特殊な例として,封禅のために玉で作成した「玉簡」も用いられた。公式文書では通常長さは 1 尺。紙普及後も,紙の代用として,あるいは荷札などの標識として長く用いられた。[12]
上海博物館蔵戦国楚竹簡 [Shanghai Museum / Public Domain / 出典] |
孫子兵法;紀元前 500 年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の軍事理論書のうち,最も著名なものの一つである。紀元前 5 世紀中頃から紀元前 4 世紀中頃あたりに成立したと推定されている。
1972 年,山東省臨沂の銀雀山という小さな丘からも 5000 点近い竹簡 が発見され,その中には従来は名前だけしか伝わっていなかった『孫臏兵法』を始めとする多くの貴重な書物が発見さている。[13]
孫子兵法 [vlasta2 / CC BY-SA 2.0 / 出典] |
帛書
帛書は,古代中国などで製作された帛と呼ばれた絹布に書かれた書。絹布に書かれた文字,及び,絹布の両方を指し,文字のみを指す場合は「帛書文字」,書写材料として見た下地については「帛」,若しくは「絹帛」という。絹帛は「細かく織った絹」を指す。[14]
帛書『黄帝四経』馬王堆漢墓出土品。発掘 1973-1974 埋設は紀元前 168 年頃 [Public Domain / 出典] |
書写材料としての帛書は,竹簡や木簡に比べての利点として,まず第 1 に,軽く,また卷いたり畳んだりすることもでき,かさばらず,文書の保管や携帯,あるいは輸送にも便利である。第 2 点として,文書に応じて長さや幅をかなり自由に設定することができた。[15] さらに,地色が純白に近く,墨の吸収力も竹や木よりよい。
一方欠点として,書き直しができないし,絹は高価な貴重品だったから,実際に絹に書かれたのは非常に重要な書籍や文書に限られ,それも下書きの段階では書き直しが自由にできる木簡や竹簡が使われ,定本を作成する時にはじめて絹が使われたことと思われる。[16]
注
- ^ 市大樹 (2012)『飛鳥の木簡 : 古代史の新たな解明』中公新書 ; 2168. p. 9.
- ^ 阿辻哲次 (1989)『図説漢字の歴史』大修館書店 p. 224.これが書物のもっとも古い形態で,この形を象形文字化したものが「冊」の字である。p.231.
- ^ 阿辻 p. 228.
- ^ 阿辻 p. 229.
- ^ 永田英正 (2001) 河野六郎, 千野栄一, 西田龍雄 編著『言語学大辞典 別巻 (世界文字辞典)』三省堂, p. 269.
- ^ 永田 p. 273.
- ^ 阿辻 p. 226-227.
- ^ 木簡
- ^ 居延漢簡
- ^ 市 p.9.
- ^ 館野和己 (1998)「日本木簡の特殊性」大庭脩 編著『木簡 : 古代からのメッセージ』大修館書店, p.194. なかには《天平勝宝四年(752)四月九日に行なわれた,東大寺盧舎那仏(大仏)の開眼供養で用いられた,聖武太上天皇と光明皇太后の礼服を納めた櫃に付けられたもの》もある。
- ^ 竹簡
- ^ 阿辻 p. 227.
- ^ 阿辻 p. 233.
- ^ 帛書
- ^ 阿辻 p. 234.
関連文献
- 大庭脩 (1984)『木簡学入門』講談社学術文庫
- 奈良文化財研究所 木簡画像データベース
- 平城宮跡内裏北外郭官衙出土木簡 文化遺産オンライン
- 国宝 平城宮跡出土木簡 国立文化財機構所蔵
- 東野治之 (1997)『木簡が語る日本の古代』(同時代ライブラリー)岩波書店
- 木簡学会 編 (2010)『木簡から古代がみえる』岩波新書; 新赤版1256. 山里純一「沖縄のフーフダ 今も生きる呪符木簡」 p. 161-168. 井上和人「木簡の再利用 木簡はお尻ぬぐいに使われた」 p. 201-209.