地球ことば村
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【地球ことば村・世界言語博物館】

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ことば村・言語学ゼミナール

言 語学ゼミナール(10)
▼ 言語学ゼミナール

 

● 2009年6月6日(土)12時30分-13時30分
● 慶應義塾大学三田キャンパス第1校舎108教室
● 座長:金子亨(千葉大学名誉教授・言語学)

 前回は第一に中国語のような「非形態論的な」言語では、サセルがほとんどもっぱら統語的なテンプレートによって表示されるという現象を見て、次いで、語 彙的な使役性と形態・統語的な使役が違った脳内処理を受ける可能性について日本語の他動詞とサセル形に関する伊藤たかねさんの実験データを紹介しました。

 今日はまずニヴフ語を例にして、使役的他動詞とサセル型使役とが語彙的に同じでも統語的には異なった形式で表示される例 を見ましょう。

 ニヴフ語には本来的他動詞の ほかに自動詞と他動詞の組があって自動詞か ら他動詞を派生する形態論的な手続きがあります。そのうち規則的で生産的なものをあげると次の三つがありま す。

 (1)と(2)は当面の問題と直接の関係がないので、接辞-gu/-kuの場合だけを取り上げます。この接辞による他 動詞文を三つあげてみます:

 このうち(1)と(2)が使役構文、(3)は依頼を受ける人を示す語句 ((自分)である誰か)が省 略されている例です。

 こうしてこの言語の使役構文は、-guをつけた他動詞に、その意味上の主語に-axをつけた名詞句を加えて示します。ここでサセタ主体である行為者とそ の他動詞の意味上の主語である行為者の二人が文のなかに示されます。上の(3)の例では「彼の妹」と彼女から頼まれた人()の二人です。この形態・統語関係を図式的に表しますと次のようになりま しょう。

 ここでGU- (=CAUSE)は他動詞化接辞と言われてきました。たしかにこの接辞によって動詞の項がひとつ増えます。絶対格の項が増えたときは普通の他動詞化です。 し かしこの言語には特別な格表示があります。それが-axで表示される被使役者格です。この格の項が増えるとき統語的使役文がつくられます。上の(1) (2)の場合です。この言語の使役構文の特徴をまとめると次の二つになります:

(a) 他動詞化派生接辞-GUによって項を1つ増やす。
(b) 同時にその項に絶対格ではなく、-ax格を与える。

 この格を従来ロシア人の言語学者はdative/accusative caseと名付けていましたが、Grudzevaや金子はcausee格と呼んでいます。この格は人・生物の(有意志)行為者に限られていて、使役構造に しか出てきません。ですからagentive, actor caseなどと言ってもよいようです。言い方を使えば、ニヴフ語の使役構文は他動詞化と行為者格付与の2要素からなることになります。
 なお、この他動詞接辞GU-(gu-/ku-)は、それだけでは使役構文を作るには不十分です。例えば、mudj(死 ぬ):mugudj(死なせる)のよ うに強制力のない場合や、cedj(乾く):cegudj(乾 かす)のように目的語がモノを表す他動詞と変わらない場合があります。もっともこの接尾辞の ついた他動詞は意志的行為の結果が示されるという点でいわゆる作為動詞factitiveの一類ですから、語頭子音交替や-uの接尾で作られる他の他動詞 とは違います。その点で他動詞接辞GU-(gu-/ku-)は特別な他動詞化接辞で、その点でこの接尾は他の他動詞化とは違います。

 ここでアイヌ語の使役構文の例を見てみましょう。

 アイヌ語にも特別な使役接尾辞があります。それは –reですが、この接辞はそれが付く動詞の語尾がどんな音かで形を変えます。前動詞が母音で終われば、この–reで(V, y,w_)、p,t,k,s,m,n で終われば-te(p,t,k,s,m,n_)、m,n なら -ka(m,n_)、rで終われば-e(r_)になります。またsan(下がる、落ちる)など移動の動詞の後ろでは –keがつきます(移動動詞n_)。この使役接尾付きの動詞と元の自動詞を加えると、例えば、他動詞の「それを食べる」はe、自動詞の「食事する」は ipe、使役動詞の「食べさせる」はe-reのようになります。使役文の例を一つあげます:

toan katkemat cep sinep kamuy utar e-re(佐藤知巳『アイヌ語文法の基礎』第30課 p.234)
あの奥さん 魚一匹 熊 達 食べ-させた
(あの奥さんが魚一匹を熊たちにたべさせた)

 使役動詞ereの項は三つで、この例ではcep sinep kamuy utar e(魚を一匹熊たちが食べた)では二項だったものにtoan katkemat(あの奥さん)という項が加わります。これらの項はどれも絶対格で、格語尾はです。

 ここでニヴフ語とアイヌ語の使役構文を比べてみます。共通点は二つ。(a)使役接尾辞が付いて使役他動詞が作られること、(b)それにともなって項が一 つ増えること。相違点は(c)増えた項にニヴフ語では-axのような特別が格がつけられるのに対してアイヌ語ではそれが無語尾の絶対格でそのまま配置され ることです。

 さてここで日本語の語彙的使役とサセル型使役に関する伊藤たかねさんのERP実験報告を思い出しましょう。ニヴフ語とアイヌ語の形態統語的使役は、日本 語のこれらの表現形式のうちサセル型使役に似ているのでしょうか?もちろんテストをして見なければ、何とも分かりません。しかしいままで見たところでは、 二言語とも使役他動詞を作るだけでなく、その他動詞の項をひとつ増やす、しかもニヴフ語ではそれに特別な格標識をあたえることが分かりました。ですから他 動詞の語彙的意味やその使役他動詞派生とう形態論的意味の認識だけではなく、その項関係の統語的な処理が加わります。脳内の処理ではおそらく項関係に関わ る連合野との結合的処理が必要になるのでしょう。そのために日本語サセル型の脳内処理が行われるのではないでしょうか。

 次回は動詞の意味の認識の問題に話を進めてみましょう。

(金子 亨)