アフリカの言語使用事情
第6回 タブーとは何か
梶 茂樹(かじ しげき)
(京都大学名誉教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所フェロー)
掲載年月日:2026年4月19日
アフリカのあちこちで言語調査を行っていると、言い伝えや迷信、俗信の類で、ここにもあるのかというものが結構見つかる。例えば、子供はカマドに腰をかけてはいけない、というようなことである。そして、子供がカマドに腰をかけると親が死ぬと続く。
私は1976年に初めてコンゴ東部でテンボ語の調査を始めた。それは私が京都大学の大学院文学研究科の博士課程の学生の時だった。当時京都大学教養部の文化人類学の助教授をしていた米山俊直先生の科研費の調査隊に入れてもらってのことだった。米山先生は、それ以前にタンザニアのイラク族やマリのバンバラ族などを調査されていて、言い伝えや迷信、俗信に興味を持っておりテンボ族においても同様な調査をされていた。
今でも覚えているが、迷信の類に、ある種の小鳥が家の中に入ってきたら、その家を捨てて別の家に移るというのがあった。もし移らなければその家の人は死ぬと言うのだ。米山先生は、どういうことなんだろうね、と首を捻っていた。当時私はテンボ語の研究を始めたばかりで、語彙と文法の調査に忙しく、そういうことは遠くで聞いているだけだった。
しかし、それから50年経ち、アフリカで30近くの言語を調査し、言語と言語にまつわる様々なことを見てきた。そして、数は多くないが、言い伝えや迷信の類もテキスト研究の一環として記録してきた。そういった経験の中で、カマドの件や小鳥の件は繰り返し現れるのである。これは一度ちゃんと調査しないといけないと思い、2008年にウガンダのニョロ語の調査を始めた時に集中的に調べてみた。今回は、このニョロ語のタブー表現の話をする。以下は私の論文「ニョロ語のタブー表現:その記述と分析」に依拠する。詳しくは、この論文を見ていただきたい。
最初に例に出した「子供はカマドに腰をかけてはいけない」というのを考えてみよう。ニョロ語には iːhâno という禁止事項がある。私はこれを「タブー、禁止事項,禁忌」と訳している。以下、タブーという用語を用いる。このカマドの件もそういったものの1つである。
なぜ子供がカマドに腰をかけたらいけないのですか、と現地の人に聞くと、子供がカマドに座ったら親が死ぬからだ、という答えが返ってくる。しかし、子供がカマドに腰をかけるということと、親が死ぬということの間には大きな論理の飛躍がある。そして通常は、言われるのは、子供はカマドに腰をかけてはいけない、ということのみで、親が死ぬということは表現されない。しかし、この結末はみんな知っている。
それで、私は、何が表現されていて、何が表現されていないかを書き出してみた。(1) 参照。まず、(1a) 子供はカマドに腰をかけてはいけない、という禁止条項がある。これが表現されているわけである。次に、(1b) 子供がカマドに腰をかける、という違反が起こる。これは実際には、(1b’) もし子供がカマドに腰をかけると、という風に違反条件として表現される。そして、その違反の結果として、(1c) 親が死ぬという怖いことが生じる。
(1) a. 禁止:子供はカマドに腰をかけてはいけない。
b. 違反:子供がカマドに腰をかける。
(b’. 違反条件:もし子供がカマドに腰をかけると)
c. 結果:親が死ぬ。
ただ上で述べたように、違反とその結果の間には大きな論理の飛躍がある。なぜ子供がカマドに腰をかけたら、親が死ぬのかよくわからないのである。この点は重要なポイントである。そしてもう1つ、タブー表現の重要な点は、多くの場合、行為の禁止に隠された理由があるということである。これは私見によれば、結局のところ、何のためにタブーがあるのかという禁止の究極の理由である。ただし、これは表現されないし、現地の人に聞いてもわからない。従って、自分で考えなければならないのである。
私もいろいろ考えたが、こういったタブーは極めて数が多いので、わかるものから片付けようと思い、とにかく単純に考えてみることにした。そしてたどり着いた結論は、カマドに腰をかけると火傷をするから、ということである。これは今まで私がアフリカの様々な社会で暮らし調査をしてきた経験から導き出された結論である。従って、タブー表現の論理構造を考える場合、(1a, b, c) にもう1つ、隠された理由d. を付け加える必要がある。(2) 参照。
(2) a. 禁止:子供はカマドに腰をかけてはいけない。
b. 違反:子供がカマドに腰をかける。
(b’. 違反条件:もし子供がカマドに腰をかけると)
c. 結果:親が死ぬ。
d. 理由 :子供が火傷をする。
では、なぜ子供がカマドに腰をかけたら、親が死ぬと言うのかを考えてみよう。言いたいことは、火傷をするから腰をかけるなということである。しかし子供は、大人が火傷をするからカマドに座るな、と言って、言うことを聞くだろうか。大人の言うことを聞かないのが子供である。そこで、例えばおばあさんが、お前、そんなところに座ると父ちゃん死ぬぞと言う。子供は、突然、父親が死ぬと言われて意味がわからない。カマドのことから、突然父親が死ぬというところに意識が行ってしまって、エッ!となる。場合によっては顔が青ざめるということもあるであろう。その時父親が、アッお腹が急に痛くなってきた、と合わせる。そして、痛い、痛い、死ぬ!なんて言ったりすると、子供は驚いて、父ちゃん死んだら嫌だ。死なないでくれ。僕が悪かった。もう絶対カマドには座らないからーッと、自らカマドに座らないことを宣言してしまう。それを聞いた父親は、そうか、段々お腹が痛いのが治ってきたな、という具合である。
ここで重要なことは,子供に、カマドに座ることと親が死ぬことの間の論理関係がわからないことである。この論理関係をよく見ると、違反から不幸に至る過程に、時間的因果関係があるように思わせるということがある。実際、そういう表現になっている。しかし実際には、時間的因果関係などありはしない。子供がカマドに腰をかけても、その後の直接あるいは間接の結果として親が死ぬなんてことはあり得ない。ここで言っているのは、カマドに腰をかけることは、親が死ぬことぐらい悪いことなのだという程度表現である。しかし子供はそうは思わず、そこに時間的因果関係があると考え、カマドに腰をかければ、その結果として親が死ぬという不幸を招くと考える。ここで言う論理の飛躍とは,この因果関係をわかりにくくすることである。もし簡単にわかるようだと、子供がカマドに腰をかけても、親が死なないようにするにはどうすればいいか考えるかもしれない。そこに論理の飛躍があればあるほど、子供はその努力をしなくなり効力を発揮するのである。
これを理解しやすいように、タブーではない通常の禁止表現と比べてみよう。対比することによってタブー表現の特徴がより明確になる。
例えば、日本で「寝る前に水をたくさん飲むと、寝小便をする。」と言われることがある。これを (2) に従って,論理分析すると (3) のようになる。
(3) a. 命令:寝る前に水をたくさん飲むな。
b. 違反:寝る前に水をたくさん飲む。
(b’. 違反条件:もし寝る前に水をたくさん飲むと)
c. 結果:なし
d. 理由:寝小便をするから。
(2) のタブー表現と (3) の非タブー表現は,いずれも意図することは行為の禁止であって、それに違反すると何らかの結果が生じるとはいう点では共通している。しかし、タブー表現では本当の理由を隠し、何らかの論理の飛躍を伴った怖い結果が含意される。子供はカマドに腰をかけたらなぜ親が死ぬのかわからないのである。もしカマドに腰をかけたら火傷をする、のように違反とその理由を言えば、それは、寝る前に水をたくさん飲んだら寝小便をすると同じで、誰にでも理解できるものになる。それでは脅しにならないし,効果的タブー表現にはならないのである。タブー表現というのは本当の理由を隠し、命令に違反すると怖い結果を招くと思わせるのが特徴である。
アフリカ社会ではタブーというのは、人の行動を制御する大きな原動力となっている。ここではスペースの都合上1例しか挙げられなかったが、その扱う範囲は広く、たんにエチケット的なものや衛生上のものから、われわれの社会では法律で規制するようなものにまで広範囲に及んでいる。伝統的社会においては,このようなタブーが社会生活を営んでいく上で大きな役割を果すのである。
文献
- 梶 茂樹 2019「ニョロ語のタブー表現:その記述と分析」,『京都産業大学論集 人文科学系列』第52号, pp. 3-27.
- 米山俊直 1990『アフリカ農耕民の世界観』弘文堂.
- 第5回 無文字言語の世界—人の名前 / 第7回 不吉
- ことばの世界―アフリカの言語使用事情 目次

