アフリカの言語使用事情
第7回 不吉
梶 茂樹(かじ しげき)
(京都大学名誉教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所フェロー)
掲載年月日:2026年5月4日
第6回でニョロ社会のタブーについて話をした。社会の中で生きていくうえで、してはいけない行為があり、もしすると、親が死ぬ、蛇に噛まれる、交通事故にあう、など怖い結果が生じるというものであった。怖い結果を暗示することで、社会にとって好ましくない行為を防ごうとする。
タブー表現で重要なことは、いい悪いは別にして、その行為をするかどうかは自分で決められるということである。例えば「子供はカマドに腰をかけてはいけない。」というタブーの場合、カマドに腰をかけるかどうかは子供自身が決めるものである。
しかしながら、世の中には自分の意志とは無関係に生じることもある。そういう場合どう対処すべきか。ニョロ語に ekisirâːni「不吉、予兆、前兆」と呼ばれるものがある(以下、不吉という用語を用いる)。私は、ニョロ社会ではこの不吉がその対処の仕方を教えるものだと理解した。これは、日本にもよく似たものがある。例えば、茶柱が立てば縁起がいいとか、ご飯を食べている時に箸が折れると縁起が悪いといったものである。ただしニョロ語のものには縁起のいいものはなく、縁起の悪いものしか見当たらない。
1例を挙げると、「あなたが旅行に出かけようとする時、ネズミが道を横切ってはならない。」というものである。これは、一見タブー表現とよく似ている。これがタブーと同じような論理構造を持っているとすると、その論理構造は (1) のようである。
(1) a. 禁止:あなたが旅行に出かけようとする時ネズミが道を横切ってはならない。
b. 違反:あなたが旅行に出かけようとする時ネズミが道を横切る。
(b’. 違反条件:もしあなたが旅行に出かけようとする時ネズミが道を横切ったら)
c. 結果:それでも旅行を続ければ事故が起こる。
d. 理由:なし(?)
しかし、これがタブー表現と大きく異なるのは、(1a) にネズミが道を横切るという自分ではコントロールできないことが生じていることである。タブーの場合は、例えば、カマドに腰をかけるかかけないか、また女性がマットの上に座る時、脚を曲げて座るか座らないかなど、命令に従うか従わないかは別にして、自らの判断で行為を行うか行わないかを決めることができる。上の不吉の場合ももちろん旅行を中止することは自らの判断で行なえることであるが、ネズミが道を横切ること自体は制御できない。このように不可抗力が生じるところが不吉の大きな特徴だと私は考える。違反の結果は、事故が起こるということだが、禁止の隠された理由というものがあるかどうかは不明である。
自ら制御できないことが生じるということで、不吉には動物がよく現れる。例えば、「フクロウは夜家の上で鳴いてはならない。」というのがある。フクロウが夜家の上で鳴くことは制御できない。しかしニョロの人たちは夜フクロウが家の上で鳴くことは不吉と考え、すぐさま火のついた棒を投げてフクロウを追い払う。そうしないと、その家の誰かが死ぬ、と信じられている。
しかしながら動物が現れても、それが不吉を表しているとは限らない。例えば「小鳥は家の中を飛び抜けてはならない。」というものである。小鳥が現れるが、これは不吉ではなくタブーである。(2) に見られるような論理構造をしている。
(2) a. 禁止:家のドアは開けっぱなしにしていてはいけない。
b. 違反:家のドアを開けっぱなしにする。
(b’. 違反条件:もしあなたが家のドアを開けっぱなしにすると)
c. 結果:家族の者が死ぬ。
d. 理由:泥棒や強盗が家に入らないように家のドアはきちんと閉めておくべきだ。
私は、小鳥が家の中を飛び抜けるということは、家のドアがちゃんと閉めていないことを表していると見る。これを、小鳥が家の中を飛び抜けるという不可抗力を表していると見れば、不吉と見えてくる。しかし、人は小鳥が家の中を飛び抜けることがないようにコントロールすることはできるのである。それは、小鳥自体をコントロールすることではなく、そうならないように家のドアをコントロールするのである。そして、自らコントロールしないならば、家族の者が死ぬという怖い結果が待っているのである。これが,タブー表現の本質である。
無文字社会は文字を使わない社会なので、社会がルーズにできていると思う人がいるかもしれない。しかし実際は決してそうではなく、社会の規則は厳密に守られている。それは、我々の社会のように文字に書いて示すのではなく、別の方法で実行しているのだ。
例えば、アフリカの農耕社会には邪術という怖いものが存在する。これも1例である。邪術とは人を呪って殺すものだ。人を呪って殺すといっても、そんなことで人が死ぬのかと思うかもしれないが、実際死ぬのである。信じられない人も、例えば毒殺と言えば、それはあるだろうと考える。しかし彼らの社会では、邪術も毒殺も同じもので1つの用語で表す。毒殺ならば、何か物質的なことが関与するわけであるから理解しやすいのだが、しかし毒殺と言っても、毒を入れるところは誰も見ていないのである。また、人を呪って殺すと言っても、どうするのかと聞くと、その前日にその人の家に行って屋根にこういう薬を仕掛けておくというようなことを言う。実際、人を呪って殺すのも毒殺も大差ないのである。
私はニョロ語の調査のためにニョロ族の中心地のホイマという町に長く住んだが、年に 1、2 回は、新聞に誰それが毒殺されたという記事が出る。では、なぜ人は呪われたり毒殺されたりするのか。その理由の多くは妬みである。妬みや恨みを買うと邪術を掛けられる。だから人は妬みや恨みを買わないように生きていかなければならない。実際は邪術や毒殺というものがあるかどうかはわからない。しかし、あると信じることが社会生活を円滑にする基盤となっているのだ。
このことは社会の至るところに現れてくる。例えばレストランであるが、ニョロ族のホイマの町では、レストランはビュッフェ形式のものしか流行らない。日本に、そして世界に多くあるような、メニュー表があって注文する形式のレストランは、できてもすぐ潰れる。なぜか。それは、メニュー形式のレストランでは、例えば私がカレーライスを注文したら必ず私のところにカレーライスが来る。そして私は食べる。もし私を妬んでいる人がいれば、そのカレーライスの中に毒を仕込んでおけばいいわけだ。だから、みんな怖いのである。ビュッフェ形式のように、みんなが食べているのを見れば、安心して食べられるのである。
アフリカには共食という文化が多くの地域にある。家で1人で食べるのではなく、みんなでご飯を持ち寄って食べるのである。文化人類学者の中には、持てる者も持てない者も平等に食べるという平等性や、共同体としての村の性格ということを言う人が多いが、私は怖さが基本にあると思っている。要するに1人で食べるのが怖いのだ。みんなで食べて安心する。アフリカでは人との付き合いには細心の注意を必要とする。
こういったアフリカ人の性格は本国を離れても根強く生きている。私は一度ベルギーに滞在していた折、人の紹介でブリュッセルに住むルワンダ人に会いに行ったことがある。初対面の人なのでベルギー名物のチョコレートをお土産に持って行ったのであるが、これ、お土産と差し出すと、一緒に食べようと言うのである。このルワンダ人は後で白状していたが、毒の混入を恐れていたのである。私が帰ったあと1人で食べて死んだら、と考えていたのだ。
こんなに怖いアフリカ、あなた行きますか。
文献
- 梶 茂樹 2019「ニョロ語のタブー表現:その記述と分析」,『京都産業大学論集 人文科学系列』第52号, pp. 3-27.

