ショヒド・ミナール 言語への愛の記念碑:ベンガル語 শহীদ মিনা
ショヒド・ミナール。ベンガル語の魂を表し、バングラデシュの建国の理想をいつまでも人々に思い出させるための記念碑。 管 啓次郎「ショヒド・ミナール(池袋) 言葉の母が見ていた」『新潮』2014 年 2 月
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ショヒド・ミナール(池袋西口公園) |
1947 年,インドから分離独立したパキスタン(現パキスタンとバングラデシュ)は公用語をウルドゥ語にする政策を推し進めていた。1952 年 2 月 21 日,母国語であるベンガル語の対等な社会的地位を要求したベンガル人の主張者へ,パキスタンの警察隊が発砲し,多くの学生と政治活動家達が殺害された。この虐殺は,ダッカにあるダッカ薬科大学とラムナ・パークの近隣で起こった。同年 2 月 23 日 に,一時的な記念碑がダッカ大学と別の教育機関によって建設されたが,そのすぐ後の 2 月 26 日に記念碑はパキスタンの警察により取り壊された。
言語運動は勢いがつき,長期に渡る争いの後,ベンガル語はウルドゥー語と対等の地位を獲得した。運動で死亡した人々を追悼するために,バングラデシュの彫刻家,ハミドゥル・ラハマンによってショヒド・ミナールがデザイン及び建設された。記念碑は 1971 年のバングラデシュ独立戦争が起こるまで建っていた。この戦争でパキスタン軍が実行し,結果として 5 万人の市民の命が奪われたと推定される大量虐殺,サーチライト作戦 (Operation Searchlight) が行われていた中で完全に破壊されてしまった。バングラデシュの独立後,記念碑は再び建設された。
現在,ショヒド・ミナールはダッカにおいて文化的な活動の中心地となっている。毎年,この記念碑で言語運動の慰霊祭が行われる。ユネスコは毎年 2 月 21 日を「国際母語の日」と定めている。
レプリカ前に設置された案内板の文面 ― 左から、日本語・英語・ベンガル語
言語への愛の記念碑 この記念碑は、ここ池袋西口公園でのジャパン・バングラデシュ・ソサエティ主催によるボイシャキ祭り(バングラデシュの正月祭り)の開催をきっかけに始まった。豊島区とバングラデシュの文化交流の象徴として,平成 17 年 7 月 12 日、バングラデシュ人民共和国ベガム・カレダ・ジア首相閣下から豊島区へ寄贈されたものです。 ショヒド・ミナールは,ベンガル語を護った人々を称えるモニュメントであり,ユネスコ総会において全会一致で宣言された「国際母語の日(2 月 21 日)」を象徴するものとされています。 中央の部分は、母親である言語を,両側の4基は,それを守る子供たちを表しています。
Monument of the Love to Language This monument was presented to the City of Toshima on July 12. 2005, from the honorable Begum Khaleda Zia, Prime Minister of the Government of the People's of Bangladesh, as a symbol of the cultural exchanges between Thoshima and Bangladesh, which start of with the Boishakhi Mela (Bangladeshi New Year festival) held by Japan Bangladesh Society in Ikebukuro West Exit Park. Shaheed Minar is a monument for respecting those who protected Bangla language, and symbolizes International Mother Language Day (February 21), which determined by a unanimous vote of a UNESCO general meeting. The central part represents language as a mother, and the four figures around it symbolize children protecting the Language.
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ডাষার প্রতি ডালবাসর মিনার
এই মিনারটি ১২ই জুলাই, ২০০৫ সালে, গণপ্রজাতস্ত্রী বাংলাদেশের পক্ষে, বাংলাদেশের মাননীয় প্রধানমস্ত্রী বেগম খালেদা জিয়া তোশিমা-কু কে উপহার দেন । এ উপহার তোশিমা-কু ও বাংলাদেশের মধ্যে সাংস্কৃতিক বিনিময়ের এক অনন্য নিদর্শন, যা এই ইকেবুকুরো নিশিগুচি পার্কে জাপান বাংলাদেশ সোসাইটির উদ্যোগে আয়োজিত বৈশাখী মেলার মাধ্যমে সূচিত ।
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Transliteration |
śahīda mināra ḍāṣāra prati ḍālabāsara mināra ei mināraṭi 12i julāi, 2005 sāle, gaṇaprajātastrī bāṁlādeśera pakṣe, bāṁlādeśer mānanīya pradhānamastrī begama khāledā jiyā tośimā-ku ke upahāra dena | e upahāra tośimā-ku o bāṁlādeśera madhye sāṁskṛtika binimayera eka ananya nidarśana, yā ei ikebukuro niśiguci pārke jāpān bāṁlādeśa sosāiṭira udyoge āyojita baiśākhī melāra mādhyame sūcita | bāṁlā bhāṣāke rakṣā karate yārā śahīda hayechilena tāMdera sammne nirmita ei mināra, iuneskora sādhāraṇa sabhāya sarbasammtikrame gṛhīta āntarjātika mātṛbhāṣā dibasa (21śe pheb<virama>ruyāri) era pratīka sbarūpa | śahīda minārera mājhakhānera aṁśaṭi bhāṣā mā, yāke rakṣā karate dui pāśe dāMRiye āche cāra santāna | tośimā-ku gaṇaprajātastrī bāṁlādeśa |