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世界の文字

手宮の古代文字 英 Inscriptions at Temiya (Otaru, Hokkaido)


手宮洞窟は,北海道小樽市手宮にある海蝕洞窟に残された洞窟遺跡である。1866(慶応 2)年,石工の長兵衛という人が,偶然発見したと伝えられる。この洞窟内部の壁面に陰刻による彫刻があり,一躍人々の注目するところとなった。

発見以来,多くの学者がこの地を訪れ壁面の彫刻を模写しいろいろな学説を発表している。最初に学会に発表したのは英国人ジョン・ミルンであった。以後,開拓使をはじめ,数多くの学者が研究を重ね,中にはこの彫刻を「文字」として解読した研究者も出現した。

その後一時期,手宮洞窟内彫刻偽作説が流れたが,1980 年に隣町,余市町で同種の彫刻を壁面にもつフゴッペ洞窟が発見されてからは,その学術的価値が再確認され,一層注目されることになった。フゴッペ洞窟の壁面彫刻と比べると,人物などの具象的な彫刻は少ないが,その類似性からみて続縄文文化期(約 1500 年前)の遺跡とされる。

北海道西北部 余市 ― 小樽 ― 札幌

国指定史跡手宮洞窟と同フゴッペ洞窟の刻画は,いずれも顔料で描いたものではなく,硬い鑿のようなもので刻み付けた彫刻的な画で,両者ともモチーフはよく似ており,一見して人間のような姿が多い。

手宮洞窟陰刻画(実物) 手宮洞窟陰刻画全体図(模写図)
フゴッペ洞窟壁画

上図:手宮洞窟陰刻画 「手宮洞窟の発見と保存」 下図:フゴッペ洞窟壁画 → 峰山(1983)は壁画について次のように解説する。「有翼人の壁」には特別に大きく刻まれた大シャーマン(図上部中央)を中心にして,舟・わな・踊りなどの構図がみられ,フゴッペ洞窟がシャーマニズム的呪術や儀礼の場であったことを雄弁に物語っている。肩から左右に翼をひろげたこの大シャーマンの垂れた両手には指が 4 本しかない(「四つ指のシャーマン」)。1 本の指は切り取られたのだ。この指折りの習俗は,後期旧石器時代の洞窟画にも描かれているほど古くからあり,ヨーロッパからアジアにまで及んでいる。身体の一部を損傷することは,未開社会における重要な儀礼で,成年式にも行われた。

発見:「絵画」なのか「文字」なのか

五十嵐鉄(後述)は,手宮洞窟に関わった初期の関係者を,「発明者(うみのおや)は相州小田原の石工長兵衛,育ての親は海軍中将榎本武揚,幼な顔の写真師は工学博士ジョン・ミルン」と,たくみなたとえで表現している。→ 上野(1984)

長兵衛 慶応 3 年

手宮洞窟が最初に発見されたのは 1867(慶応 3)年であり,発見者は小田原出身の長兵衛という一石工であった。石材の試掘のためにたまたま海岸にのぞむ一つの岬に露頭している岩石を調べるために足を踏み入れたところ,洞窟を見出し,その奥壁に何か彫刻らしいものがあることに気付いた。その土地の人々に語り伝えられたこの洞窟も,もし他に紹介する人が得られなかったならば,或いはそのまま忘却の彼方に埋没されてしまったかも知れない。

榎本武揚 明治 11 年

 榎本武揚
榎本武揚(えのもと たけあき,1836-10-5 ~ 1908-10-26)は,1874 年 1 月,海軍中将に任命され,同時に特命全権公使となり露国公使館に在勤を命ぜられた。榎本は,外交官であり,政治家であるとともに,機械工学・鉱物学・地質学・気象学・冶金学などにも深い知識を有し,民俗学や人類学にも関心をもっていた。

榎本は,1878(明治 11)年にシベリアを横断し,ウラジオストックを経て小樽にも立ち寄り,10 月に東京に帰った。この榎本が小樽で手宮洞窟を見たのである。榎本の来訪時の記録が公にされるのは, 1884 年刊行の『北海道志』(上巻:第10巻「名跡」)で,次のように記されている。ただし,榎本が一行のものに図写させ東京大学へ送ったとされる模写図は,現在のところ存在が確認されていない。

初メ海軍中将榎本武揚開拓大書記官山内提雲等此地嘗テ石鏃石剣雷斧及ヒ陶器古髑髏ヲ土中ニ堀リ得タルヲ聞キ明治十一年来観シ因テ又此刻文アルヲ見ル写シテ東京大学ニ送ル

ジョン・ミルン 明治 12 年

 ジョン・ミルン
当時工部大学校で鉱山学を講義していたイギリス人ジョン・ミルン(John Milne,1850-12-30 ~ 1913-7-31,鉱山技師・地震学者・人類学者・考古学者,東京帝国大学名誉教授)は,榎本から,手宮洞窟の報がもたらされると,その翌年(1879 明治 12 年)の夏に,小樽に駆けつけたのである。ミルンは,付近の貝塚を発掘して石鏃や縄文式土器を得,あわせて洞窟をこまかく観察し,彫刻を忠実にスケッチした。

帰京後,10 月 11 日にはこのことを英国協会(British Association)で報告し,「小樽及函館に於いて発見せし石器及び日本に於ける史前の遺跡につきての二三の記述」と題して同協会の会報に発表し,手宮洞窟の彫刻のスケッチをも載せた。この中で,ミルンの調査当時,すでに洞窟の崩壊が進行しており,また漁業関連の作業により,煤が付着し,観察しづらい状況となっていることが記されている。また,「銘刻(inscription)」が鋭利な道具,もしくは石斧によって施されたものであることを指摘している。→ 石川(1995)

ミルンの作成した手宮洞窟彫刻の模写図

ミルンは文献の中で,いくつかはルーン文字あるいは中国の古代文字に似ている,男根崇拝の表現,偽刻など,いくつかの解釈を並立させており,これはアイヌ民族の手になるものとした。小樽市教育委員会の石川の翻訳を掲げる。→ 菊池(1997)

これらの銘刻のうちいくつかは,ルーン文字の「m」に類似している点に注目してもいいと思われる。これらが,古代中国の文字に類似しているとも考えられる。他にもいくつかの説があり,そのうちのひとつは,これらの銘刻が宗教的指導者によって伝えられた階級を示す標章のようなものであったとする説である。他に,男根崇拝を示すもの,人物や動物を簡単に描写した,ちなみにルーン文字の「m」は鳥を表している,という説,そして「さまよえる考古学者」たちのばか正直さにつけこもうとして誰かが偽作したものであるという説もある。

筆者自身は,この地域に貝塚やさまざまな遺物を痕跡として遺した人々の手になるものであるという考えに傾いている。その人々とは,この場合おそらくアイヌ民族であろう。

E. S. モース 明治 13 年

 E. S. モース
モース(Edward Sylvester Morse 1838-6-18 ~ 1925-12-20)は,1878 年 7 月横浜を出帆して北海道にゆき,小樽を訪れ,付近の貝塚から出土した土器などをも見ている。しかし,不幸にして未だ手宮洞窟については知らされず,その後,ミルンによって調査され紹介されることになった。

そのモースは,「最近の出版物 ―日本考古学に関する新刊―」『アメリカン・ナチュラリスト』第 14 巻 1880(明治 13)年 9 月(『大森貝塚』岩波文庫収録)の中で次のように述べている。

小樽における岸壁の銘文の挿図は,人をあやまらせる最もひどいものである。象形文字学者が,この奇妙な銘文の見かけから何らかの考えがもてるように,私は日本人モリシマ氏の図を縮めて示しておく。
モリシマ氏の模写図 1880 年頃

奇妙なことにモースは手宮洞窟を訪れておらず,見てもいない彫刻の模写図にケチをつけたのは妙な話だが,その背景には日本の先史時代研究をめぐる 2 人の対立が,感情的なものになっていたという事情が指摘できる。→ 上野(1984)

開拓使 明治 13 年

開拓使は,北方開拓のために1869 年 7 月 8 日から 1882 年 2 月 8 日まで置かれた官庁である。手宮洞窟が世間の関心に上がるや,開拓使でも 1889(明治 13)年の冬近く,一官吏を派遣してその彫刻を模写させた。

開拓使の模写図「古代文字様彫刻」

手宮洞窟は,『北海道志』の中の「名跡」の部に「石文(文字の意)」と題して紹介された。文中,「その文亦鳥跡の如く字に類せず」という表現が見られる。同書は開拓使時代に編纂が行われたものであったが,開拓使が廃止となり大蔵省の名で刊行された。前掲「榎本武揚」参照。

其石文ニ至リテハ或曰「クルーニック」古代ノ文字ナリ或曰支那古代ノ文字ナリ或曰石器時代事ヲ記スルノ章ナリ又曰古代当国豪傑族等ノ徴章ナリ或曰石世ノ墓標ナリト其説牽強附会徴信ス可キナシ(中略)之ヲ要スルニ上世ノ事備サニ甄ス可ラス其文モ亦鳥跡ノ如クニシテ字ニ類セス姑ク疑フ所ヲ闕ク。
デジタル資料:開拓使編(明治17年)『北海道志』(大蔵省);国立国会図書館近代デジタルライブラリー【デジタルデータ (「石文」コマ番号 238)

名取(後述)は,前掲のジョン・ミルンの図と開拓使による図,そして明治 30 年頃の図(後述)を比較検討し,開拓使の図のほうが真に近いことを指摘している。→ 名取(2003)

ミルンの図は彫刻が少ないのに,開拓使の図では著しくふえており,いわゆる「木株」が多く描かれているので,前者が正しく,後者は後の加刻をも丹念に写したものだから,開拓使の図は信用できないと考えられていた。ところが,いわゆる「木株」というのは,仮装人物を抽象化して表現するときに,強調した太い胴部の形であって,フゴッペ彫刻には数多くみられるものである。

その他の彫刻についても,開拓使の図はフゴッペ彫刻の基本形式に(少数の例外を除いて)あてはまるものである。しかし比較的精密な開拓使の図にも欠点があり,たとえば,著しく風化したいわゆる「木株」は描きおとされているが,今日でも壁面を注意して観察すれば,明らかにそれとわかる。これは,手宮彫刻が始めからの偽物ではないことを示す,有力な証拠の一つである。

有栖川熾仁親王 明治 14 年

 有栖川熾仁親王
明治天皇の札幌行幸(1881 明治 14 年)に随行した有栖川熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう,1835-3-17 ~ 1895-1-15)が,代わって小樽地方を巡覧した。このとき手宮洞窟にも足を運び,当時の見聞を紀行文『隋鑾記程』に記しその中で「蝦夷文字」と紹介している。

吏胥又導いて廠東数十歩に到る。石壁削立し、隠々として卦坎(算木の面にあらわれた卜の兆象の意)の如きもの数行を見る 云く往年土人雷斧砮石等の物を掘り得たり 壁上刻面あり。即ち蝦夷文字と。蝦夷には暦日なし、況や文字をや。然り。古語拾遺の序に明かに我上古にも文字なきを言ふ。而も学者猶神代文字を伝ふ。此も亦異しむに足らざらんのみ
『隋鑾記程』明治 15 年 第 3 巻 13 ページ
国立国会図書館インターネット公開随鑾紀程 巻3

欧米人による研究

明治時代になると,お雇い外国人教師や宣教師,医師らがアイヌ資料を収集するようになった。ジョン・ミルン,フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリヒ・フォン・シーボルト,ハインリッヒ・B・ショイベ,ジョン・バチェラーなど多くの研究者が日本で調査・研究に当たった。

デジタル資料:岸上伸啓,佐々木史郎(2011)「19 世紀末から 20 世紀前半にかけてのアイヌ研究とアイヌ資料の収集 : ドイツコレクション展示の背景として」アイヌ文化振興・研究推進機構編『千島・樺太・北海道アイヌのくらし』;みんぱくリポジトリ【デジタルデータ

H. B. ショイベ 明治 15 年

ショイベ(Heinrich Botho Scheube 1853-8-18 ~ 1923-3-4, 京都府立医科大学の創設に関わる)は,1882(明治 15)年に Die Ainos. Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde 紙上に模写を発表したが,その背景となる文化まで論及したものではなかった。→ 浅野敏明(2003)

ショイベによる模写図

ジョン・バチェラー 明治 17 年

1928 年頃のバチェラー
英国聖公会の宣教師ジョン・バチェラー(John Batchelor 1854-3-20 ~ 1944-4-2)は,1877 年来日し,札幌を中心にキリスト教の布教活動に従事するとともに,アイヌ民族を対象とした教育活動や医療活動など慈善事業を展開した。また,アイヌ文化やアイヌ語について著作を残した。

彼は,1884 年 7 月,小樽へ立ち寄りいわゆる「古代文字」を見たときの(否定的な)感想を記している。ジョン・バチラー(1928)『我が記憶をたどりて』(札幌 : ジヨン・バチラー)

其字には何の意味があるのか一向解りません。色々の説を聞きましたが或る日本人の人が其の文字を読む事が出来るそうで之は昔のトルコの文字たと申したそうですが,私はそれを信ずる事が出来ません。

又或る人は古代支那文…宗教の坊主の徴章…獣の絵…昔の蒙古の言葉…死んだ人の標…ひどい人は否あれはたれかの悪戯でせうとまでいふのです。どれを聞いても見ても一つもしつかりした根拠があるのではなく,どういふ意味かと言ふ事は未だに解りません。ともかく人は誰でもよいかげんの事を言ふので困ります。『知ラズヲ知ラズト言フハ之即チ知ル也』とそれは本当です。

渡瀬荘三郎 明治 17 年

渡瀬荘三郎(わたせ しょうざぶろう,1862-12-31 ~ 1929-3-8)は,1884(明治 17)年 8 月同地を訪れ,同年 10 月に,人類学会の席上でこれを述べ,次いで 1886 年 3 月刊行の『人類学会報告』第 1 号に『札幌近傍ピット其ノ他古跡ノ事』と題する論文(【デジタルデータ】)を発表した。この中で手宮洞窟の彫刻について触れた,文中,開拓使で行った図を紹介し,これを説明し,彫刻は「神代文字」であり,コロポックルの遺跡であると述べる。→ 上野(1984)

渡瀬荘三郎による手宮彫刻石摺の写真
タカシマカツナギ川ニ沿ヒテテミヤノ貝塚ヲ距ルコト遠カラザル所ニ大ナル岩アリ是ニ畵ノ如キモノ彫リテアリ之ヲジンダイモジト云フ其ノ形畵ノ如シ (中略) 何ノ畵カ慥ニハ解カラ子ド土人ノ酋長ノ墓表カ戦争ノ記念ノ為ナル可シ中央ニ大キク畵キタルハ酋長ナラン此岩ノ下ニ人骨ノ出ヅル所アリ今ノ有様ヨリ推セバアイノノ手ニ成リシトハ思ハレズ多分コロポツクルノ遺跡ナ可シ

コロポックル論争

日本考古学史上において,初めての論争といえるものが,国内に残された遺跡をめぐるいわゆる「コロボックル論争」であろう。その端緒は,前述したように,ミルンの論文の中にもうかがえるが,一般にこの著名な論争の発端としてあげらるのは,渡瀬荘三郎による上掲報告である。

これに対し,白井光太郎は明治 20 年 1 月,同じく『東京人類学会報告』に反論『コロポックル果たして北海道に住みしや』を掲載し,今度はそれに対し坪井が再反論『コロポックル北海道に住みしなるべし』(デジタルデータ)を述べ,ここに,「コロポックル論争」が始まるのである。この論争は後に,日本の先住民が果たしてどのような民族であったのかという論争に拡大し,コロポックル説を唱える坪井に対し,アイヌ説を唱える白井の説に,後に小金井良精や鳥居龍蔵なども加わることになる。→ 石川(1995)

坪井正五郎 明治 29 年

坪井正五郎(つぼい しょうごろう,1863-2-22 ~ 1913-5-26,自然人類学者)は,1887 年 7 月にこの地を訪れた。そして後に,調査の結果を「北海道手宮に於て発見されたる古代彫刻」と題して『史学雑誌』第 7 編第 4 号(明治 29 年 4 月)に発表した。

彼は,「古代彫刻の意味を推究す為に現存未開人民の行為を参考とすると云ふは不審の事とは思はないのでござります」と述べ,その事例として南方アフリカ,レリベ地方の洞窟画,アラスカのアイガルクザムット人の彫刻などを挙げている。そして,手宮彫刻についての見解を次のようにまとめている。

是は恐らく石器時代人民の手に成った者で有らう彫刻は一方から始めて他方へ読んで行く様な性質のものでは無く全体を以て或る事柄の紀念と仕たものと考へられる。個々の彫刻は多くは頭無しの人の形で,即ち多くの人の死んだ事を表し,其中の大小は位の高下を示したものらしい。

手宮「古代文字」説

手宮洞窟内の彫刻は,鳥居龍蔵によって「文字」とされ,中目覚によって「判読」され,手宮の古代文字として人口に膾炙するに至った。その後,朝枝文裕による中国古代文字説が,さらに 20 世紀末になってもなお「文字説」が提唱されている。

 現在の手宮洞窟模写図

手宮洞窟の模写図には,摩滅を恐れて,1880 (明治 13)年開拓使に於いて 20 分の 1 の精密な模写図を作り,当時の北海道帝大自然科学博物館に保存されたものがあり,これが今日において知り得る最も信憑すべき資料であるとされる。ミルンの論文挿画に現れたものは,ただ要領を得るための略図であって,その精密さはとうていこの図には及ばない。

その後,洞窟壁面の壊滅が甚だしく,1888 年坪井正五郎が訪れたときには,既に模写図を作る事の出来ない程の状態となっていた。そこで土地の有志等が痕跡をさえ失われることを恐れ,明治 30 年頃これに加工を施し,朱で彫刻面を補ったのである。現在伝わっているものが右上に示した図である。開拓使の図を推しはかることはもはや困難となっている。その後この彫刻を基にして,さまざまな論議が生じた。→ 中谷(1935)

鳥居龍蔵 「突厥文字説」大正 2 年

鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう,1870-5-4 ~ 1953-1-14)も 1912 年になると,同地を訪れた。鳥居は樺太庁から委嘱を受けて,同島の民族調査を行い,帰路,手宮洞窟に立ち寄ったのであり,1913(大正 2)年 6 月の日本歴史地理学会の例会で講演した。そして同年 10 月に刊行された『歴史地理』第 22 巻第 4 号に,彼の撮影した写真を紹介するとともに「北海道手宮の彫刻文字に就いて」と題して講演談話を掲載した。

鳥居はこれを石器時代の人間が彫刻したものでなく,もう少し進んだ人間の手になったものとなした。そして絵ではなく一種の文字であると考え,これが奥壁に彫刻され,この場所が横穴のような風がある点などから,もと墓場であって,墓の奥壁に記念として文字を彫刻したものと推定した。この文字はどういう種類であるかについて次のように述べている。

この文字は突厥の古い文字だろうと考える。蒙古文字の元はウイグル文字でありますが,ウイグル文字は突厥族のものでありますが,そのウイグル文字以前に又一種の文字がありました。この古い時分の突厥文字はいわゆる Runenartige Inschrift (Runic) であります。これは又 Tu-küe Inschrift (鳥居の言う「ツケー文字」)と申します。

この突厥民族と最も深い関係にあった靺鞨(まっかつ),すなわち後の渤海になった民族が北辺にきて,これを残したものと考えたのである。靺鞨人(渤海をも含む)は『日本書紀』にある粛慎人であり,その年代は隋の終わりから唐の初め,すなわち奈良朝の前あたりのものとなした。鳥居は,研究対象として国内だけでなく広く北東アジア全域に共通する文化要素として陰刻画を把握しようとした点が,「文字」としての要素をできるだけ論理的に模索する動機となった。→ 石川(1995)

洞窟の文字の配列は,3 列に刻されており,これを右から横に読むべきものとなした。例会の席上,沼田頼輔は,渤海人の日本に来た時は,その文字は漢字を用いたものであるという説明でこれを疑ったらしいが,とにかく満蒙に広く足跡を残して,その方面に造詣の深い彼が,その地方の材料と比較して,古代文字と推定したことは一つの大きい刺激を学会にあたえたものであった。鳥居龍蔵(1976)「北海道手宮の彫刻文字に就いて」『鳥居龍蔵全集 第3巻』(朝日新聞社):初出『歴史地理』(大正 2 年 22 巻 4号)

中目覚 「古代トルコ文字説」大正 7 年

『小樽の古代文字』口絵
語学者中目覚(なかのめ あきら(またはさとる),1874 ~ 1959-3-27,言語学者・地理学者・教育行政官)は,1918(大正 7)年 2 月に雑誌『尚古』第 7 号に,「我国に保存セラレタル古代土耳古文字」を発表,さらに『歴史と地理』第 1 巻 6 号・第 7 号には「北海道手宮洞窟の靺鞨語墓誌について」と題する論文を発表した。

当時広島高等師範学校教授の職にあった中目は,この論稿の中で,小樽手宮の洞窟の彫刻を古代トルコ文字を応用して綴られた靺鞨語であり,縦書きされたものと推定した。その上で,この洞窟は墓地であり,文字は墓誌であるとなした。

靺鞨人の言葉がどうして手宮の洞窟に墓誌として残されたかについて「靺鞨語墓誌」で,渤海人ならびにその前身たる靺鞨は,終始東方に向かって経済的な発展を試みようとし,北海道の地にも植民を送った。そのとき斉明天皇 6 年(660),族長は阿倍比羅夫と戦って死亡したので,当時大陸との交通の要衝であった小樽港の近く手宮の洞窟に遺骸を送り葬られた,という。そして墓誌を刻んだ。「今摩滅した文字を想像してみると,大様次の様な意味を彫刻したものではあるまいか。」と述べ,次のように「解読」した。解読の過程と批判は,後述「中谷治宇二郎」の項を参照。

…我は部下を率ゐ大海渡り…闘ひ…此洞穴に入りたり……

中目は結びとして,さらに「嗚呼 粛慎の老翁よ」で始まる感傷的な文を綴って筆を擱いた。。とにかく中目の考察は興趣に富む推理であり,また一篇の詩であった。なお,研究の素材となった陰刻画は,明治後期の絵葉書によるものであった。中目覚(1919)『小樽の古代文字』(地理歴史学会)上掲 2 文を収録。国立国会図書館近代デジタルライブラリー 【デジタルデータ

寺田貞次は中目覚の談として次のように伝えている。寺田貞次(1926)『小樽史跡手宮古代文字』(小樽:左文字勉強会);国立国会図書館近代デジタルライブラリー 【デジタルデータ

古代文字の研究は泰西にては盛に行はるゝ事にして、未知の新事實は之に依りて發見せらるゝ事少からず、手宮彫刻の如き外人の調査せる者多きを以て、萬一外人の手に依りて讀破せられんか、我が學会の恥辱之に過ぐるものなけん、故に手宮彫刻にして若し文字なりとせば之を研究し何等かの意味を附するは是れ邦人の務にして,又我が學会の進歩と云ふべきなり

朝枝文裕 「中国古代文字説」昭和 23 年

ミルン以来,手宮の「古代文字」は中国の漢字ではないかと言われていた。これを纏めて発表したのが,朝枝文裕(1889 -)による『手宮之古代文字』(千代田書院)である。

朝枝は「この手宮古代文字は疑いも無く支那古代文字であつて,しかも古い形のものである。(中略)支那古代文字と現在の漢字に当て嵌めて見ると,次の表の如くになるのである。」と述べる。文字に丸がつけてある所を「舟を並べて来たり。末,遂に,この地に至り。本営を置く。帝,この下に入る。變あり。血祭す。」と「解読」した。

手宮・支那古代文字比較表

朝枝の説く中国古代文字は,事実上は甲骨文字であるとし,次の例を挙げている。しかし,中目同様,基礎作業での問題点が多く,またその年代観についても実際とは大きく異なるものであった。

手宮・亀甲両文比較

川崎真治

 川崎真治「手宮古代文字」スケッチ
鈴木旭は,川崎真治という歴史言語学者の,「新しい角度からの手宮古代文字の解読研究」を紹介している。それによれば,「手宮古代文字はアムール川(黒竜江)下流を中心に定住していた原ギリヤーク人によって刻まれたもの」であり,古い文様が刻まれた上に,後になって新しい文様が刻まれた「二重の岩刻文字」であると述べる。

ついで,「12 画面に分割して,左から読んで」いくと,一つは「梟神に祈る」二つは「主神に祈る」という祈りの言葉が刻まれていた,という。鈴木旭(1994)『古代文字が明かす超古代文明の秘密』(日本文芸社)なお,ウィキペディアで「川崎真治」検索すると関連項目に「ドンデモ本」へのリンクが張られている。

「文字説」終結

中谷治宇二郎に続き,フゴッペ洞窟の報告書の中で,護と服部健は,明治以来言われてきた「文字」説を否定し,少なくとも研究者の間では,これにより「文字説」は完全に終結したものととらえられている。

中谷治宇二郎 昭和 10 年

中谷治宇二郎
戦前の研究で集大成ともいえるものが,1935(昭和 10)年に発表された中谷治宇二郎(なかや じうじろう,1902-1-21 ~ 1936-3-22)の論文「北海道手宮洞窟の彫刻」である(中谷治宇二郎 著 ; 今永清二 編.(1993)『考古学研究の道 :科学的研究法を求めて』溪水社;初出『科学』第 5 巻)。この中で中谷は,ミルン以来の研究史を整理し,論点を明確にし,資料批判を行ったうえで,最も原型に近いものとして開拓使作成の模写図を使用するなど,極めて実証的な論文であり,研究手法の点でも現在でもなお評価すべきものである。

中目の「古代トルコ文字説」にたいし厳しく批判をなしている。中目は,原画図 [A} と甚だしく異なる,明治 30 年頃改作された図 [C] を用いて下図のよう古代トルコ文字を介して解読したのであった。どの模様も縦の線に対してシンメトリーとなっており,上下に長いから下に読むものとする縦書きを主張する中目は,シンメトリーを保つためにある文字は横に倒して書いたのであると推定した。別に 1 列と 2 列の間に 2 字が書かれおり,それは RJ であるとする。

中目 文字解読法
このような改変を含んだ手順を試みて前述の訳となったのであった。中谷は次のように揶揄している。
人が若し此の如き自由な分解や置換えによる自由な解読法が許されるならば,或いは火星の条痕や陶器の割目をも読み得るであろう。

服部健 昭和 28 年

服部健
言語学者服部健(1909 ~ 1991)は「フゴッペ洞窟の彫刻」(フゴッペ洞窟調査団,余市郷土史研究会 1953(昭和 28)年)と題する文で以下に記すように「文字」説を退けている。

視覚記号の一種である文字は,象形文字,表音文字,音節文字,単音文字の如何を問わず,一定の音と結びついていること必要条件とする。言い換えれば言語形態となんらかの関係を有するものでなければ文字とはいえない。判じ得るだけのものは文字ではない。「読み得る」ものだけが文字なのである。

フゴッペ洞窟では合計 200 個に達する彫刻がほとんどすべての地層から現れた。図 1 から図 5 のような彫刻,それの下向きになったものなどがすべての壁面に見出されたから,彫刻は量的には決して少ないとはいえないが,現在までに現れたものについては多くの種別を識別する手がかりはないようである。


言語を写すに最も記号の数が少なくてすむ単音文字であっても,なにかまとまった考えを表すには,現在見られている程度の彫刻の種別では,少なすぎる。文字だけが目の前に示されても,それと結びつく言語を知らなければ解読は不可能である。

護雅夫 昭和 45 年

護 雅夫(もり まさお,1921-3-30 ~ 1996-12-23,東洋学者・歴史学者・専攻は中央アジア・突厥民族研究)は「フゴッペ彫刻と内大陸文化」(→ フゴッペ洞窟調査団)で,フゴッペ洞窟が持つ意義と,文字説について述べている。

フゴッペ洞窟の意義は,何らかの意味で祭祀・信仰に関連のある洞窟であること,それと結びついた壁画彫刻が存在することにある。手宮と極めて類似した彫刻をもつのをみると,恐らく,他地方からの伝播文化がこの地方に来たってある期間存続し,本州に至ることなくそのまま消滅したものではないか,と述べる。

突厥文字,古代トルコ文字,漢字説においては,使用された地域。時代の認識に誤りがあることを指摘して,それぞれの説を否定する。そして,「筆者はこれは,普通了解されている意味における「文字」には非ずして,むしろ呪術的意味をこめたいわば原始絵画であると考えたいのである。」と結んでいる。

手宮洞窟「偽刻」説

「文字」説の真贋論争とともに,洞窟刻画の「偽刻」論争が繰り広げられた。手宮洞窟の刻画が偽刻である可能性は,すでに,ミルンにより指摘されていた。直接のきっかけとなったのは,白野夏雲が,部下による偽刻であることを関場不二彦に告白したことによる。これにより,「偽刻」説が複数発表されることになり,昭和に入ってからも金田一京助も加わり,手宮洞窟と旧フゴッペ彫刻の評価は危ういものになった。

白野夏雲 明治 5 年

 白野夏雲
白野 夏雲(しらの かうん,1827-8-18 ~ 1900-9-8, 本名今泉耕作,物産研究家・アイヌ語研究家)は,1892 年に札幌神社宮司となり,また,札幌人類学会の会員としても活動していた。彼の告白によると,1872(明治 5)年,開拓使物産係りであったとき,物産調査のため,小樽地方に行き,部下 17,8 人をつれて手宮付近に仮寓していた。そのとき部下の一人が洞窟の出口の土壁にいたずらに文字様のものを彫ったことがあり,それが手宮の彫刻として喧伝されているのである,というものであった。

学究の徒でもあった白野に虚言は考えられない,と関場もその言辞を信じた。明治 30 年頃には札幌人類学会では「我等の舌頭にのぼすべき価値のないもの」という意見が支配していた。

関場不二彦 明治 30 年

 関場不二彦
関場 不二彦(せきば ふじひこ,1865-1-7 ~ 1939-8-25,外科医・札幌人類学会の創立に貢献)は,アイヌ語の研究や人類学上の研究をなし,手宮洞窟にも関心をもち,1897(明治 30)年の春に同所を訪れたが,この彫刻には疑問をさしはさんでいた。1931 年に発表した「再び所謂,手宮古代文字に就いて」『蝦夷往来』(第 2 号 昭和 6 年 4 月 10 日)で,「我民族が傅ふる上古の文字などに比較も出来ない」ような記号につて述べている。

明治十三年冬に、其筋の命令で模寫された六十餘の刻𨯳は、其當時、己に一半を風雨剥蝕の爲に喪失したるものとせば、其以前は一百數十餘も連續した(其左行右行、又竪書か横書か、不規則で辧識し得べからざる)刻鏨記號であつたとも言はれる。○如是きは従前、蝦夷族の爲さざる所であつて,他に類例も見出さない、○現存の字型の上からして,我民族が傅ふる上古の文字などに比較も出来ない(杜撰孟浪なる字型と其排列)○又發見當時高き一百尺の懸崖に刻𨯳しあつたとは今日の状況より見て不可思議に考えられる。

金田一京助 昭和 5 年

金田一京助
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882-5-5 ~ 1971-11-14, 言語学者・民俗学者・アイヌ語の研究)が「アイヌのイクトパの問題」と題した報告の中で手宮洞窟の「奇體な文字(?)は,豎書きに右から漸く左方へ運んでゐる!」ので,このような書き方をするのは外国人ではなく「日本人の好事家のいたづら?!」という。また,白野の話を受け継ぎ,さらに偽刻を行った者の名前を挙げて報告している。

続けて,3 年前に発見された(旧)フゴッペ彫刻(後述)にも触れ,「人の顔まで刻んでゐると云つて大発見のやうに騒」いでいると記している。金田一京助(昭和 5 年)「アイヌのイクトパの問題」『人類学雑誌』(第 45 巻第 4 号)

手宮刻画「偽刻」説一掃 フゴッペ洞窟の発見

「偽刻」説の広まりに対し,五十嵐鉄は丹念な調査を実施し,白野の部下の偽刻を打ち消した。しかし,最終的に「偽刻」説が消えるのは。フゴッペ洞窟の発見を待たなければならなかった。1927 年に発見された(旧)フゴッペ彫刻にも当時,古代遺物とする説と偽刻とする論争があったが,後にフゴッペ洞窟の発見(1959年)により,その一部であったことが確実となり,手宮洞窟の彫刻に対する「偽刻」説は一掃された。

五十嵐鉄 昭和 12 年

「偽刻」説の広まりに対し,小樽在住の教員五十嵐鉄(1888 ~ 1942)は,実に丹念な聞き取り調査を実施していく。特に,白野の部下が行ったとする陰刻画の目撃者を探し当て,その証言を記録している。また,石工長兵衛による発見の経緯が明らかになった。

その結果,五十嵐は,明治7,8 年以前に確実に陰刻画が存在したこと,白野らが偽刻したという洞窟と現存する手宮洞窟の位置が異なる可能性があることを指摘し,これを関場にも認めさせた。五十嵐はこの業績を 1937(昭和 12)年 1 月に『史跡手宮洞窟の新研究』という著書で発表した。しかし,五十嵐の業績は私家版のため,広く流布されず,ことに中央の学会の一部には知られなかった。このためか,金田一は戦後になっても「偽刻」説を唱えていた。→ 石川(1995)

ここに偽刻説は一掃された観があるが,その年代や彫刻の性質を明らかにする極め手もなく,なお学問的な究明には道遠いものがあった。

西田彰三 旧フゴッペ彫刻 昭和 2 年

1927(昭和 2)年,北海道西部積丹半島の基部,余市町丸山の南側で,国鉄の保線工事の際に壁面に彫刻があるのが発見され,「畚部(フコッペ)古代文字」と呼ばれた。しかし,その後流失してしまう,

小樽新聞は 11 月 14 日以降紙上で「フゴッペの古代文字並びにマスクについて」と題する小樽高商教授西田彰三の連載記事を掲載し,この手宮遺跡が古代蝦夷族の墓地であり,マスクの顔貌よりみて蝦夷族と思われるという西田の説を発表した。洞窟の「偽刻」説を否定し,旧フゴッペ彫刻と手宮洞窟の刻画が同一民族の作ではないこと,手宮洞窟の刻画が「優秀なる」民族の作であること等を述べた。また旧フゴッペ彫刻の 9 点の刻画は文章ではなくアイヌの記号であって,姓名を後に伝えるものであるとした。

小樽新聞 昭和 2 年 11 月 14 日 拡大図

西田による「旧フゴッペ彫刻」模写図

岸壁から発見した「畚部古代文字」を模写したのが右図である。これについて次のように解説する。「この畚部古代文字の構成は最もよく神代日文なるもの特にその対馬国卜部阿留氏家伝の文字に近き系統を有するものと思はる」と述べる。

根拠として,古代ツングース民族の一部が樺太から北海道まで南下し,一部は朝鮮から対馬を経由し九州に入ったことが史実として認められているので「対馬国卜部阿留氏家伝の日文文字がトングース民族の土耳其文字と共通の点あり北海道の小樽付近の手宮、畚部の両地点にこの系統の文字を見るのは決して不可解のことでないと思ふ」小樽新聞 昭和 2 年 11 月 16 日

違星北斗 昭和 2 年

 違星北斗
旧フゴッペ彫刻がアイヌの作とした西田に対し,異議を唱えたのが地元余市町出身でアイヌの歌人違星北斗(1901 ~ 1929-1-26)であった。違星は 1927(昭和 2)年 12 月 19 日から小樽新聞紙上に疑ふべきフゴツペの遺跡と題する記事を連載し,刻線が新しく見えることから偽刻ではないかと疑いつつも,フゴッペに発見された「奇形文字」は記号のようなもので,アイヌの氏族を示すエカシシロシに似ていることを指摘する。

また,アイヌは無駄なものは製作せず,無意味に落書きはしないことから,製作者はアイヌではなくクルプンウンクル(=コロポックル)でないかと推測した。→ 浅野敏明(2003)

名取武光 フゴッペ洞窟 昭和 25 年

小樽市の西方 20 キロの地にあるフゴッペにおいて一小山に洞窟が発見され,手宮と同様な彫刻が発見された。1959(昭和 25)年 8 月,札幌南高等学校郷土研究部員がこの洞窟内に入って壁面に彫刻のあることを発見し,同部員による一部の試掘が行われた(下記「道新 vs タイムス」参照)。翌 1960 年夏,北海道大学名取武光(1905 ~ 1989)が責任者となり,総合調査団が設けられ組織的な調査が行われ,→ フゴッペ洞窟調査団編『フゴッペ洞窟』が刊行された。この調査団には,前述した服部健,護雅夫も参加していた。

洞窟は,海水の浸食作用によって生成されたもので,間口 4 メートル,奥行約 5 メートル,天井の高さ約 5 メートルで,やわらかい砂岩の壁面に 200 位の彫刻があった。壁面はほとんど土砂が堆積していたので新しく彫刻したものとは到底考えられぬものであった。しかもこの彫刻は,その形態において手宮洞窟のものと類似しており,当然同一系統,同一年代のものと認められた。

 旧フゴッペ彫刻とフゴッペ彫刻の対比図
このフゴッペ洞窟の南壁東端の彫刻と,旧フゴッペ彫刻は直距離で僅か 12 m しか離れておらず,この間岩壁は続いていると推定され,おそらく旧フゴッペ彫刻は,フゴッペ彫刻とも無縁のものではないと推定される。

この発見によって,手宮洞窟の彫刻に対する「偽刻」説は一掃された。名取は,堆積していた土砂の層位から約 1500 年前には既にこのフゴッペ彫刻が存在していたのではないかとした。

彫刻についての調査団の一致した見解は,象徴主義的な原始絵画であるとするものであった。この洞窟は由緒ある居住地或いは聖地であって,人々はそこへ集合し,岩壁に象徴的な彫刻をほどこし,呪術的な儀礼を行ったものと考えたのである。→ 名取(2003)

道新 vs タイムス 昭和25年

1950(昭和 25)年 8 月,札幌南高等学校による試掘が始まり,冬も間近になった 11 月 3 日に,洞窟の入り口に「札幌南高調査中」の看板を立てて封印した。ところが,12 月 16 日付北海道新聞(道新)朝刊の記事(左図:拡大図)は,「河野博士と札幌学芸大学,札幌西高等学校の一行が 12 月 14 日,洞窟内で彫刻文字を発見…」と報じた。そこには札幌南高校の一文字もなく,怒り心頭に発した南高校関係者は,道新の対抗紙である北海タイムスに実情を訴えた。12 月 22 日の同紙では「見苦しい功名争い―余市古代文字発見の真相!」と題して十段ヌキの記事(右図:拡大図)が紙面を飾った。その反論が「名取君に反駁」として河野から出されるなど,双方が投稿欄を舞台に公開質問状をたたきつけ論陣を張った。北海道考古学界は騒然たる雰囲気のなかにこの年を送った。→ 野村崇(1997)『日本の古代遺跡 41 北海道 II』(保育社)
北海道新聞 1950 年 12 月 16 日北海タイムス 1950 年 12 月 22 日

フゴッペ洞窟内部の概観(最奥部方向)

付録 庄司平吉「北海道の古代文字」明治 20 年

『東京人類学会雑誌』第 18 号(明治 20 年 8 月)および第 20 号(同年 10 月)に,小樽在住の庄司平吉が収集した「北海道の古代文字」資料が報告されている。その中に図のような角あるいは翼をもち,動物に仮装した人物のようなものがあるのも注目される。資料としての信頼度に問題はあるが,フゴッペ洞窟彫刻との共通性がみられ,検討に値するものと思われる。→ 上野(1984)

右:フゴッペ彫刻の「有翼人」飛ぶシャーマン → 峰山(1983)
左:庄司平吉:北海道の古代文字

『北海道諸地方にて獲たる古器物に記せる文字』東京人類学会雑誌 第18号【デジタルデータ

北海道の異体文字
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北海道諸地方にて獲たる古器物に記せる文字

『アイノ及び北海道の古代文字』 東京人類学会雑誌 第 20 号 【デジタルデータ


アイノ及び北海道の古代文字 拡大図

付録 「雲とはんのき」「小樽のひとよ」「銘菓古代文字」

宮沢賢治の詩「雲とはんのき」(詩集『春と修羅』に掲載)の中には「手宮文字」として登場するほか, 鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」や北原ミレイの「石狩挽歌」(小樽市出身のなかにし礼が作詞),三波春夫の「おたる潮音頭」といったいわゆるご当地ソングにもそれぞれ「古代の文字」,「古代文字」,「手宮の文字」として歌われている。手宮洞窟の「手宮の古代文字」としてかなり古い段階から商業意匠として使われていた。昭和 10 年の小樽新聞に「古代文字の意匠で啀み合ふ三老舗」という記事をみることができる。愛信堂・千秋庵・吉野家の意匠争いは,「古代文字」というネーミングにより遺跡の社会認知が進んだことをあらわしている。→ 石川(2003)

小樽新聞昭和 10 年

関連リンク・参考文献

[最終更新 2019/06/20]