バクトリアの文字 英 Bactrian script

バクトリア語は,インド・ヨーロッパ語族,イラン語派に属する中世語であり,現在は死語となっている。中世イラン語の中では,ソグド語,コータン語,コレズム語とともに,東方語に分類される。現在のバルフを中心とする古代のバクトリア(Bactria),後に,トカリスターン(Tokharistan;漢文資料の吐火羅,都貨邏,など)と呼ばれるようになった地域で話されていた言語である。この地域は,ほぼ,現在のアフガニスタン北部,および,タジク,ウズベク両共和国の南部に当たる。 [1]
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紀元前 180 年頃の領域 [拡大] |
クシャー朝の勢力は 3 世紀(?)頃には衰え,バクトリアは,ササン朝の影響下に入った。しかし,それも長続きせず,その後はエフタル(Hephthalites),次には突厥の支配を受けた。この間も,バクトリア語は連綿と使われ続け,イスラム期に入ってからも,数世紀の間は使用されていたらしい。たとえは,パキスタン北西部のトーチ(Tochi)渓谷で発見された碑文は,バクトリア語,アラビア語,サンスクリット語によって書かれており,9 世紀のものである。バクトリア語には,ギリシア文字以外の文字によって書かれた資料もある。唯一のものとしては,トゥルファンで発見されたマニ文字によるマニ教文書 1 点(7~9 世紀)がある。古代アフガニスタンにおける新知見 Slide 2
文字と資料
1950 年代中ごろまでは,バクトリア語について知られていたことといえば,わずかにクシャーン朝の王達とその後継者達の貨幣銘だけだった。クシャーン朝の貨幣銘は,おそらくは碑文のスタイルをまねた角張ったタイプのギリシア文字(monumental script)で書かれていた。原則としてこれらの貨幣銘は読むのに困難はない。だがその内容は,王や神々の名前,称号などに限られている。クシャーン朝以後のバクトリアの支配者達(クシャノ=ササン朝・キダーラ・エフタル・チュルク等)の貨幣銘は,写本のスタイルをまねた草書体のギリシア文字で書かれていて,はるかに解読が困難である。これに似た草書体(curisive script)で書かれた写本の小さな断片が幾つか知られている。しかしその数は少ないし,不完全なものばかりで,まともな解釈の見込みはほとんどなかった。 [2],カニシカ1世の貨幣
スルフ・コタル出土の碑文
1957 年にアフガニスタン北東部,バグラン(Baghlan)の近くのスルフ・コタル(Surkh Kotal)から初めてまとまったバクトリア語の碑文が発見されたことで,この見込みはすっかり覆された。既にクシャーン朝の貨幣銘から知られていた記念碑体の文字で書かれたそのテクスト自体は,さほどの困難もなく読むことができた。しかし,貨幣銘から知られていた名前や称号は,語彙の点では極めて乏しく,この言語の文法構造についてはほとんどヒントも与えない程度だったので,解釈のほうはそう簡単ではなかった。にもかかわらず,ヘニング W. B. Henning によって主要な点は直ちに認められた。すなわち,ここに述べられているのは,神殿の聖域がカニシカ王によって創設されたこと,その後そこが水の枯渇のため放棄されたこと,さらにカニシカ紀元の 31 年(カニシカ王の後継者フヴィシュカの治世の初め)に,ヌクンズク(Nukunzuk)という名の高官によって聖域が修復されたこと,である。スルフ・コタル出土の碑文

ラバータク碑文
スルフ・コタルの碑文以後バクトリア語の碑文は幾つか発見されたが,大部分は保存状態も悪く,バクトリア語について知識はさして改善されなかった。ところが 1993 年になって,根本的に重要な新しい碑文が,スルフ・コタルから遠くないラバータク(Rabatak)というところで偶然発見された,カニシカ王の治世の最初の年の出来事を刻んだラバータク碑文である。冒頭でカニシカ王は「偉大なる救い,正しく,義なる支配者,神として崇拝すべき者…」と呼ばれている。これに続いて注目すべき一節があり,「彼(カニシカ王)はギリシア語で勅令(?)を発し(?),その後それをアーリア語にした」とある。ここで,カニシカが「アーリア語」という時は,それは明らかに,碑文の言語であるバクトリア語であろう。ここでカニシカが「アーリア語」を強調していることと,貨幣銘でギリシア語に代ってバクトリア語が用いられるようになったこととの間に連関を見ないことは難しい。貨幣銘の研究からは,この交代はカニシカの治世の非常に早くに起こったことが分かっており,それはまさに治世の第一年目であったということも十分あり得るのである。ラバータク碑文

バクトリア語アルファベット
次に,バクトリア語アルファベット表を掲げる。ギリシア語のアルファベット 24 文字(ただし,ξ と ψ は現在までのところ在証されていない)のほかに,ギリシア語にはない音を表すための文字 þ (san) が付け加えられている。したがって,全体は 25 文字からなっていたと考えられる。これは,7 世紀前半に,都貨邏国を通過した玄奘の次の報告と一致する。→ 吉田

関連リンク・参考文献
バクトリア | グレコ・バクトリア王国
- Afghanistan “Sassanian, Kushansha, kidarite, Hephthalite and Hindu Shahi Rule”
- Bactrian Coins
- バクトリア語手紙 バクトリア語文書の多くは手紙で,そのうち幾つかは封をしたままで完全に保存されている。次に掲げる例は,手紙が粘土の封印で封をしてある状態で,外側に宛て名が書かれているものである。同じ手紙を開封したところで,左側に広いマージンがある文面の標準的なレイアウトを見ることができる(ソグド語の手紙参照)。また封印は,手紙の底辺を片端だけでつながっているように細く切って作った皮ひもに付けられている。
手紙が粘土の封印で封をしてある状態。 |
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同,別サイド。 |
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開封後。 |
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注
- ^ 吉田豊(1992)「バクトリア語」 『世界言語編(下-1)』(言語学大辞典,第3巻,三省堂)
- ^ ニコラス・シムズ・ウィリアムズ(訳:熊本 裕)(1997)『 古代アフガニスタンのバクトリア語文書』
「言語進退はやや諸国に異なっている。字のなりたちは 25 言あり,[それが組み合わさって]次第に[語彙,文章が]でき,これを用いて必要に備えている。書は横読みをし,左から右に向かう」(水谷真成『大唐西域記』)