チュー・ノム(𡨸喃) ベトナム chữ nôm,英 the former Vietnamese scriptベトナム chữ Quõc ngữ,英 the modern Vietnamese script
漢字改造のベトナムの古い文字,「擬似漢字」と呼ばれることもある。文字の起源は 10 世紀初めとされ,18,19 世紀がこの文字の黄金時代といわれ,数々の韻文文学作品が生み出さる素地をつくった。しかし,この文字自体は単に自国語表記の1つの手段として便宜に供されたにすぎず,国の正書法として十分に確立されたものではなかった。次代の正式な文字である現代正書法チュー・クオックグー(字国語,ローマ字改造の文字)の確立・普及とほぼ同時に,歴史の舞台から姿を消した。
Trang chữ Nôm trong Dialogues Cochinchinois in năm 1871 tại Paris [Abel des Michels – Dialogues Cochinchinois / Public Domain / 出典] |
名称チュー・ノムのチューは,ベトナム語では「文字」を意味する。ノムについては 2 つの説がある。1つは漢字「南」のベトナム漢字音(漢越音)ナムの訛音であるとする説。もう1つの説は,現代ベトナム語にあるノム・ナつまり「話し言葉の」「俗に言う」などの意の語に発し,チュー・ノムとは「話し言葉の文字」「通俗の文字」であるとする説である。
紀元前 111 年に中国の直接支配下に入った後から,科挙の制度が廃止される 1915 年まで,国の正式な文章は漢文で書かれ,漢字が国の正式な文字であった。しかし,漢字のみでは租税徴収のための戸籍台帳などに記す村落固有の名称や,そこに居住する村民の名前などを表記するには十分でなかった。そこで,自国語の発音に近似の音をもった漢字を当てたり,それらが本来の漢字とは異なることを示すために何らかの符牒をつけるなど,工夫を施したと思われるのがこの文字である。
また,この文字の発生の原因として歴史的要因も考えられる。すなわち,10 世紀から 13 世紀にかけて,中国周辺の東アジア地域で各種の民族文字が誕生するのであるが,それらの刺激をうけたのかもしれない。つまり,遼の「契丹文字」や西夏の「西夏文字」,金の「女真文字」などの誕生が,同じく漢字の原理を借りたチュー・ノム発生の重要なインパクトになったであろうと推測できる。→ 冨田
文字の構造
その発生当初は「万葉仮名」式に漢字の字形をそのまま当て字として使用することがほとんどであった。時代が下るにしたがって,自国語の発音に合わせ,漢字の部首あるいは独自の構成要素を組み合わせて漢字とは別の字形を生産した。チュー・ノムの構造は多岐にわたり,漢字 1 字からなるもの,漢字 2 字の組み合わせからなるもの,漢字に加工を施したものなどがあり,さらに詳しく分類すると,音と意味(概念)の両方を表すチュー・ノム,音のみを表すチュー・ノムなどに分けられる。
チュノム [Betoseha, Tomchen1989 / CC BY-SA 3.0 / 出典] |
一方,ノムには,漢字「喃」(または「諵」nam 「くどくどしい」)を借りて当てる。しかし,この字もあるいは部首的表意字「口」(または「言」)+音符「南」の形声文字である可能性もある。ここでは,部首は完全に記号化されており,符牒として主として左上に小さく書き添えられる。なお,図右に示した字形「喃」は,チュー ・ノムフォントを指定した際によるもので,それ以外の場合は「喃」と表示される。
次に Chu Nom.org からチュー・ノムの例を引用する。
次のチュー・ノムの例は,OSの種類やインストールされているフォントにより,正しく表示されない場合は,こちらを参照。
众倅 we, us |
𣎏體 possibly |
𣊾𣇞 right now |
家庭 family |
𠊛些 people |
如勢 like this |
包𣇞 when |
彈翁 man |
畢哿 all |
空體 unable |
𡥵𡛔 girl |
時間 time |
彈婆 woman |
如丕 like that |
呂𠳒 to answer |
越南 vietnam |
勢芾 how |
扒頭 to begin |
包饒 how much |
𡥵𠊛 man |
朱別 to tell |
𣋚𠉞 today |
渃眜 tears |
頭先 first |
城鋪 city |
作者 author |
幸福 happiness |
感𧡊 to feel |
盤𢬣 hand |
一羅 formost |
𡥵𤳆 boy |
𡥵𤳆 after that |
众些 we, us |
情𢞅 love |
𧿨吏 to return |
認𠚢 to realize |
公司 company |
電話 telephone |
局𠁀 life |
噲羅 superficial |
テキスト
チュー・ノム用例 ー 金雲翹
『金雲翹』(キム・ヴァン・キエウ、ベトナム語: Kim Vân Kiều)は,19 世紀前半にベトナム(阮朝)の文人グエン・ズー(阮攸)が中国の小説『金雲翹伝』を翻案し,チュノムで記した長編叙事詩。チュノム文学の最高峰と考えられ,ベトナムの国民文学的作品とみなされている。全編 3,254 行の内容は,佳人薄命,才命相妬をテーマに因果応報や儒教倫理を思想内容とする才子佳人の物語である。→ 川口健二
テキストは,TRUYỆN KIỀU のプロローグである。サンプルはTRUYỆN KIỀU BẢN 1902を参照。クオック・グーによる表記は TK Quốc Ngữ Nov.24th 2004 Sato を参照。赤・青字で示した語の韻律については → 六八体
Trăm năm, trong cõi người ta,文語訳: 竹内與之助訳 (1975)『金雲翹』講談社.
Chữ tài, chữ mệnh, khéo là ghét nhau
Trải qua một cuộc bể dâu,
Những điều trông thấy đã đau đớn lòng;
Lạ gì bỉ sắc, tư phong,
Trời xanh quen vói má hồng đánh ghen.
吾人の生涯一百年 才命偶々相嫉み口語訳:グエン・ズー/原作 佐藤清二・黒田佳子/英和訳 (2005)『トゥイ・キォウの物語』吉備人出版.
經たるは一局の滄桑にて 見るに心の傷ましき
何ぞ奇ならん彼嗇比豐 蒼天、紅顏を憎むなり
百年、それは人の命の長さ。一人の人に、非常に優れた才能と恵まれた人生が共に授けられることは滅多にありません。
五百年、それは海を桑畑に変えるほどの時の長さ。その間には、数多くの痛ましい出来事が起こるもので、佳人が不運につきまとわれることも少なくありません。
不幸な佳人は不思議に多いものですが、そんなに驚くようなことでもありません。紅の頬を持つ少女に嫉妬が向けられるのは、この青空の下で起こりがちな、人の世の習わしなのです。
𡨸喃フォント
チュー・ノムは,CJK統合漢字拡張B(U+20000..U+2FFFF)と,VNPF 《Vietnamese Nôm Preservation Foundation (會保存遺産喃) 》から配布されている字喃 TrueType フォント“Nom Na Tong” のユニコード外字領域(U+60000..U+63FFF)に収録されている。
テキスト入力
會保存遺産喃 Vietnamese Nom Preservation Foundation が提供するAnother Nom Lookup Tool 検索画面で,クオック・グー,漢字,16 進数による文字コード,あるいは英語などのコードや文字を検索語として目的とするチュー・ノムを検出し,その文字をテキストにコピー・アンド・ペーストすることができる。UnicodeのCJK統合漢字拡張B(U+20000-U+2A6FF)に収録されているチュー・ノムは,一般のパソコンで利用できる。字喃 Nom Na Tong フォントをインストールし,その使用を指定れば,CJK統合漢字拡張B以外の文字,およびチュー・ノム独自の字形の文字を表示することができる。次の例は,検索語 ‘script’ の結果である(部分)。
注
- 冨田健次 (2001)「チュー・ノム(𡨸喃)」河野六郎, 千野栄一, 西田龍雄 編著『言語学大辞典 別巻 (世界文字辞典)』三省堂, pp. 611-618.
- 「六八体」ここでは,6 字と8 字が交換する典型的な「六八体」ベトナム韻律,1 行目(上段)6 字目と 2 行目(下段)の 6 字目が韻を踏み,さらにその行の 8 字目と 3 行目(上段)の 6 字目とが韻を踏んでいる。
- 川口健二 (1997)「金雲翹」『月刊しにか 8(8)』
関連リンク・参考文献
- チュノム | Chữ Nôm | チュハン
- 中西コレクション (国立民族学博物館)チュー・ノム文字
- Omniglot: Chữ-nôm script
- 川本邦衛 (1997)「チュ-ノム--捨てられた民族文学」『月刊しにか 8(6)』
- 清水政明 (2007)「字喃の創出からローマ字の選択へ」『言語 36(10)』
- Viện Ngôn Ngữ Học (1976) Bản tra chữ Nôm. (Hà Nội : Khoa học xã hội) 画数順に 8187 字が採録されている。